京極夏彦『邪魅の雫 大磯・平塚地域限定特装版 (講談社ノベルス)』(講談社ノベルス)

榎木津の縁談相手が破談の申し入れをして来たことと、その相手の妹が大磯で変死体で見つかったこととの間の関係は? その他にも、大磯や平塚ではいくつもの殺人事件が発生。それらは「連続」なのか「非連続」なのか、それとも――。「雫」によってもたらされる、幾人もの人々それぞれの「世界」における「出来事」と「変化」が、交錯し、すれ違う。そして最後に、例によって京極堂がそれらを重ね合わせた時、見えて来る「世界」とは・・・・・・?

ようやく読了。いやあ長かった。いや、ページ数はいつものことだから良いんだけど、それより何より、読了までの期間が(三ヶ月半!)。文字通りチビチビ読み進めてはしばらく中断し、ということを繰り返し、一体物語の中で何が進行しているのかを見失いつつも、何とかこの日を迎えることが出来ました。なぜかいつも以上に、妙な感慨があります。読了後、「何が進行しているのか」が分からなくなったのは決して僕自身の記憶力や読解力(だけ)の問題ではなく、ちゃんと理由があったことが判明して、ちょっとホッとしました。以前にあった某事件(シリーズ中の某作品)の構造との対比が作中でも何度か為されているように、それこそが正に今回の作品のポイントだったわけですね。その某作品はともかく、少なくとも前作『陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず) (講談社ノベルス)』(の関連箇所)だけはパラパラと読み直しておいた方が仄かに良かったかも・・・・・・。

毎度お馴染み京極堂による憑き物落とし、今回のその要素の一部についてはこうまとめられるでしょう――世界とは自分の世界であり自分が死ねば世界は終わるという、いわば「独我論的気分」とでも言うべきものを否定し、そうした気分を持つ人物に対して、自らはそうした「世界の淵」としての「形而上学的主体」ではなく飽くまでも「世界の構成要素」としての「人間主体」に過ぎないんだということを気づかせる。もちろんこのまとめ方にはあるバイアスがかかってはいるけど、こうした「気分」ていうのはやっぱり、いわば純粋な「議論」によってではなく「憑き物落とし」によってしか(どちらも「言葉」によるものであることに変わりは無いけど)拭い去れないものなのかなあと、漠然と思ってみたり。