「犬のウンチ以下」か?…ネット議論大暴走 (夕刊フジ)

ここんところちょっとした話題らしい。

http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/motorcycle_gang.html?d=29fuji30051&cat=7&typ=t

これ、実は問題は二重になっていることに気をつけたい。

まず一つ目は、果たして当の裁判官は、暴走族は「犬のウンチ以下」と言ったのか、「犬のウンコ以下」と言ったのか、あるいは「犬の以下」と言ったのか、そして「糞」の場合、それは「フン」なのか「クソ」なのか、という問題である。

これは、確かに少々ふざけた問題設定かもしれないが*1、意外とそうでもない。

だってたとえば、「犬のウンチ」と言えば、何というか、ちょっと可愛らしい響きがするのに対して、「犬のクソ」と言えば、明らかに侮蔑的なニュアンスを伴った響きを持つだろうからだ。

テレビなどでアナウンサーがこの記事を読む場合は、たいてい「フン」のような気がする――まあ、無難と言えば無難。

でも、無難が必ずしも良いとは限らない。それでは「真実」はいつまでも闇の中である。

いつの日か、是非ともアナウンサーのどなたかが、「裁判官は、(ここから感情を込めて)『暴走族なんて犬のクソ以下だッ!』(ここからまた冷静に戻って)と口走ったとのことです」というようにニュースを読み上げてくれることを願うばかりです。

またちょっと話しを戻して、仮に、裁判官がそう口走ったということが事実であり、そしてそれは裁判官としてあるまじきことであったとしよう。そのことで当の裁判官は、何らかの社会的な批判を浴びることになるかもしれない。

しかし気を付けなくてはならないのは、そのことと、当の犯罪を犯した(と最終的に審判が下されたものとして)少年たちの罪の重さとは全く何の関係も無いということ。

あまりにも当たり前過ぎることのはずなんだけど、やもすれば問題がすーっとズラされて、いつの間にか被告の少年たちに対してある種の同情が寄せられるってことにも成りかねないので。

一人一人では賢明かつ合理的な判断が出来るのかもしれないが、ある集団や「世論」単位になるとなぜか愚かしい判断を下しがちになる――というよりもむしろ、判断自体が停止させられがちになる。

「自分だけは気をつけよう」とは、誰もが思うこと。

だから悲しいかな、そうした集団や「世論」を構成する一人一人だって、やはり同じようにそう思っている人たちなのだ・・・。


そして二つ目。ここからはちょっと真面目――と最初は書いたんだけど、上で書いたヤツもいつの間にかちょっと真面目入っている。だから、ここからもちょっと真面目。

少なくとも記事(とそのタイトル)を読んだ限りでは、どうも、この発言内容自体に関する議論になっているような印象。

でも、「暴走族は果たして犬のウンチ以下かどうか?」なんて、そりゃあ心情的には「その通り」と思わないこともないし、実際そう思う人の方が多いようだし、それに、単に思うだけだったり一般の人がプライベートな会話で発言するくらいなら特に問題は無いだろう。

仮に、実際にそう思ってたって、本当に暴走族を捕まえて来て、まさに犬の糞よろしく土の中に埋めるなんていう行動を起こす人はいないはず*2

だからむしろ、もしこの件に関して何か議論するんだったら、その発言を裁判官が公判中にしたということは事実なのか否か、そしてもしそれが事実だったとしたら、それは果たして(飽くまでも)裁判官として許されることなのか否か、という点に問題を絞るべきなのでは?

*1:って自分で認めるなよ。

*2:だと思いたい。くれぐれも早まった行動は控えましょう。