認識論と存在論

「THE DOG」という、企画というかコンセプトというか会というか、があります。

http://www.thedog-club.com/

(こっちの方がむしろ見やすいかも。http://www.thedog-clubs.com/

犬の顔をほぼ正面からアップ写しているために鼻が大きく見えるのがまた、愛くるしさを増長しています。実は、そのデザインにはこうした写真バージョンだけでなく、実はぬいぐるみバージョンもあったりするんです・・・が。そうなると、お察しの通り正に、「実際に鼻が大きい犬」になってしまうわけです。まあ、それはそれで可愛いかもしれませんが・・・。

いずれにせよ、これは、「かくかくである」という存在論的な事柄と「かくかくに見える」という認識論的な事柄との区別の重要さをまざまざと思い知らせてくれる、恰好の例だと言えます。こうした事例だけなら特に害はないし、そもそも実際にはそうあるような事でもない、と思われるかも知れません。しかし、必ずしもそうとは言えないのです。

「幽霊(あるいは、何か得体の知れないもの)に見える」という認識論的な事柄から「幽霊が見える」という認識論的な前提を導き、そしてその語用論的な前提「(あれは)幽霊である」が直ちに意味論的な含意へと転化され、ついには、「幽霊は居る(存在する)」という存在論的な結論へと一気に滑って行く・・・。

しかし再び、じゃあ、多くの人たちが陥りがちなこうした「推論」方法はことごとく愚鈍であり憂慮すべきだということになるのかと言えば、それはそれで早まり過ぎでしょう。だって、僕らの普段の生活は、認識論的な前提から存在論的な結論を導くことに依存しているはずだからです。目の前に食べ物が見える。ということは、目の前に食べ物がある。だから、実際に食べる(「実際に食べることが出来た。だから、実際に目の前に食べ物があったのだ」という後ろ向きの結論もあり得るでしょうが)。目の前で火が燃えているように見える。ということは、目の前で火が燃えている。だから、実際に手を出してみたり前に進んだりしたら火傷する。などなど(つまらない例ですが・・・)。僕らは通常、認識した事柄をわざわざ、しかもその都度、疑うなんてことはしません。そんなことをしていたら切りがないどころか、生存すら危ぶまれることになるでしょう。僕らが持っている「認識論的な前提から存在論的な結論へ」という認知・推論システムは、だから、恐らく生物学的にも裏付けられるであろう重要かつ鋭敏な機構だとさえ言えるのかもしれません。

だとすると重要なのは、「認識論的な前提から存在論的な結論」を直ぐさま導くような推論を行ってしまうそのこと自体を批判することではないのは明らかです。重要なのはむしろ、そのような推論を行うことは必要であるのと同時に不適切なものとなる場合もあることをしっかりと認識した上で、それはどのような場合なのかを理解し、(かつて自分がした、あるいは今自分がやっている)その推論はそうした種類のものでないのか否かをしばしば反省(サルでも出来るような類のことではなく)してみること、でしょう。