見つからないモノ

最近、必要なモノが見つからないことが多くて困っている。まあ、よくある話しだ。普段は何気なく目にしているはずなのに、あるいは以前確かにどこかで目にしたことがあるはずなのに、いざ必要な段になって見つけようと思うと、なぜか見つからない。

どうしてこう、いつもいつも必要なモノは見つからないんだ!?

イライラする。と同時に情けなくもなる。時には独りで反ベソをかいちゃったりもする。

でも分かってる。この「問い」には実に単純な答えがある。

――見つからないモノはすべて、見つけようとしているモノだから。

僕らは通常、必要なモノだからこそ、それを見つけようとする。そして、そもそも見つけようとしていないモノが「見つからない」ということはあり得ない。とは言っても別に、「見つけようとしていないモノは必ず見つかる」ということではない。あたり前だ。そうではなく、単に、あるモノを見つけようとしてない時にそれを見かけない事態を「見つからない」とは呼ばないという、いわば文法的ないし概念的な事実を述べているに過ぎない。そもそもの初めからそのモノを見つけようとはしていないなら、それを見かけないからと言ってわざわざ「(そのモノが)見つからない」なんて言ったりはしないだろう。逆に、それをしたなら、そのモノを見つけようとしていた(常に意識的にではないにしても、少なくとも「見つけようアンテナ」は張っていた)ということに他ならない。

もちろん、見つけようとしていたモノ、つまり必要なモノが見つかることはある。というより、むしろその方が圧倒的に多いはずなのだ。そうでなかったら、そもそも日常生活を送ること自体が困難だろう。必要なモノが見つからないことなんて、それに比べたら実は僅かでしかない。「必要なモノはいつも(常に)見つからない」という印象は従って、「見つからないモノはすべて、見つけようとしているモノ」だという、経験的事実(あるいは経験則)ならぬ概念的事実(よって、必然的に真な事実)に対する印象が、どういうわけか転化することで生じるに至った単なる錯覚に過ぎない。「必要なモノが見つからない」なんて、実際には貴重な体験なのだ――ある意味で。それは印象にだって残る。

そんなことは重々分かってる。分かってるんだけど、それでもやっぱり、イライラするし、情けなくなるし、反ベソかいちゃったりもする。その時に今みたいな事をグダグダ自分に言い聞かせてみても、何の効果もない。恐らく一番効果的なのは、

――常に整理整頓をしておくこと・・・・・・。