『12人の優しい日本人』

映画(DVD)版はもう何度も見返していたので、舞台(再演)版はどれだけ違うのか楽しみにしていた。結果、全体のストーリーはもとより、一言一句変わっていないセリフも結構多かった。正直ちょっと残念。とはいえ、逆に言えば、ストーリーの面白さは保証付きってこと。あとの楽しみは、そのストーリーをそれぞれの役者さんたちがどう演じるかということと、小ネタをどう弄ってくるかということ。

現在の日本で陪審制が採られていたとしたらという設定の下、陪審員に選ばれたごく普通の12人によるある事件についての審議の模様を描く。「現在」と言っても、舞台での初演は1990年(映画化は翌年)だから、今年の再演はそれから15年が経っている。でもやっぱり「12人の優しい日本人」たちの気質は相変わらず。ほとんど変更されていないのは、そうした「日本人気質」の普遍性ゆえ(その必要がなかった)? 相手を説得するような話し方や論理的な議論を「そういうの苦手だから・・・」と避ける人、一方的に自分の意見を押し付けたがる人、他人の意見にすぐ左右され、結局自分の意見を持たない人、理由なしに単に好き嫌いや直感だけに頼って意見を言う人、だんまりを決め込む人、根回しを始める人、などなど。そんな「議論下手」な日本人たちが、「人を裁く」ことに関する責任重大な論題について話し合うことになったらどうなるか――。

審議の進行上決定的なポイントとなる(目撃証言者による)「ある聞き違いの可能性」が明らかになった瞬間、場内大爆笑。少なくとも映画版と全く同じネタだったため、個人的には「ニヤッ」程度だった。ただ逆に、これだけ笑いが起こるということは、それだけ未見の人が多かったってこと? だとしたら、それもまたちょっと意外かも。でもちょっとだけ羨ましかった。

そうそう、この部分、ネット上で(映画版、舞台版に限らず)感想を書いているほとんどの人たちは、「聞き違った結果の言葉」か「聞き違い元の言葉」のどちらか一方だけを書くに留めることでネタバレを避けようとしていますよね? もちろんそれは妥当で適切な判断だと思うんだけど、ただ哀しいかな、この作品を未見の人がネットを巡回していて、前者だけを書いてある記事と後者だけを書いてある記事の両方を読んでしまう可能性だけは避けられないわけで、そうなると結果的にネタバレしてしまわざるを得ないってことに・・・・・・。よほど勘の悪い人でない限り、これら両方の関係に気づかないなんてことはないよな・・・・・・。未見の方は要注意。

それにしても、温水洋一が光っていた――いや、頭の話しじゃなくて。テレビで(明石家)さんまに弄られている時の彼しか知らない人には想像もつかないだろうようなテンション(ボルテージ)と剽軽さで、今回ははしゃげない役どころの生瀬勝久の分まで(?)奮闘していた。と言ってもその生瀬氏、ある部分ではちゃっかり笑いを取りに行っていたり。これってやっぱり、三谷氏によるもともとの演出というより(公認の?)アドリブでしょうね、きっと。この作品では、よりにもよってと言うか何と言うか、生瀬勝久小日向文世の2人が珍しく真面目な(?)役どころだったのが意外。

陪審員10号(堀内敬子)の基本的なキャラクター、とりわけ陪審員2号(生瀬勝久)に対する接し方には違和感を持った。ただ、これもまた映画版に馴染んでいたせいかもしれないけど・・・・・・。とはいえ、正直、今回こうした微妙な違和感を全体的に感じてしまったのだった。どういうことだろうと考えてみると、この作品(再演版)ていわゆる「当て書き」になっていないことに気づく。つまり、もともと完成していた脚本を、再演に際して新たな役者さん達が演じたという格好。これって一般的には普通の流れなんだろうけど、三谷作品としては比較的珍しいのでは? もちろん、舞台役者さんたちは自分なりの芝居を作り上げていてさすがだなあといつもながらに感心したんだけど、何というか、まだ舞台に馴染んでいない役者さんたちは・・・・・・。だから少なくとも僕の場合、そこで感じた違和感が全体の印象にまで波及してしまった、という感じでしょうか。これ以上細かいことには触れないでおきます。

某雑誌に掲載されていた劇評を読んで、迂闊にも初めて気が付いたことがある。この審議を最終的な決着に向かわせるのに貢献した某人物の職業は実は、いわゆる「論理力」より「想像力」が重視されるもので、正にその点にこそ、三谷氏がこの作品に(密かに?)込めた思いを見て取らなきゃいけなかったのだ。そんなことも見て取れないようじゃあ、この作品に関してどうのこうの言う資格なんてないのかも――と、さんざん言った後に反省してみる。

最後に、今回の舞台版を観た人にだけ分かるネタ――僕が見た回は、「姉歯秀次」、「矢田亜希子」、「朝青龍」、でした。