カスパロフ氏、今年は3Dでコンピューターとチェス対決

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031112-00000005-wir-sci

チェス・プログラム「ディープ・ブルー」と対戦して引き分けたガルリ・カスパロフ氏が、再び、今度は「X3Dフリッツ」というプログラムと対戦するらしい。記事中、

カスパロフ氏は賞金のために対戦するのではない。人間性の守護者』とでも言うべきことを、実に真面目に考えているのだ」

とかいうコメントが載っていて、実際、ニュースとして取り上げられる際にはこうした観点からのものがほとんどだ。でも、そこにはちょっとした先入見ないしある種の混乱が無いだろうか。

一言で言えば、「人間性」というなら、チェス専用プログラムに匹敵するような頭脳なんて逆に「非人間的」な気がするではないか、ということ。だから、むしろこれは、「コンピュータは人間(の頭脳)に勝てるか」(そして、勝ったら人間の負け)ではなく、「人はどれだけコンピュータたり得るか」を実証するものだと見るべきでは? その時、もし人間が勝ったらコンピュータの面目(そんなものがあるのだとして)丸潰れだが、仮にコンピュータが勝ったとしても、別に人間の面目がいささかでも潰れることにはならない。ただ、「人間の頭脳は(まだ)そこまでコンピュータ的なものではないのだな」という認識が深まるだけである。

たとえば、たまたま昨日書いた森博嗣の『四季』シリーズの主人公である真賀田四季は、幼い頃から「人類史上最も神に近い」とされる天才として描写されている。しかし、少なくとも森氏の描く「天才」とは、飽くまでも高性能コンピュータに類する処理能力をどれほど持つかにかかっている。結果としてその描写は、徹頭徹尾、いわゆる一般的な観念としての「人間性」とはほど遠いものとなる。

しかし、「コンピュータ的頭脳を持っている」と「天才的頭脳を持っている」とでは、必ずしもその外延を同じくしない――強いて言うなら、前者は後者を含意するかもしれないが、その逆は必ずしも成り立たない――と思う。確かに、コンピュータに匹敵するような処理能力の持ち主がいたなら、当然その人は「天才」と呼ばれることだろう。でもその一方で、恐らく多くの人は、特に芸術や文学などの分野で天才的な才能を発揮する人のことを「コンピュータ的な処理能力の持ち主」とは捉えない。

どちらの種類の「天才」がより優れている/いない、という問題ではない。その価値は、それがどのように活かされるかに依存してのみ決まる。