"Causes of death of philosophers" Part9

http://www.dar.cam.ac.uk/%7Edhm11/DeathIndex.html

何だか怒濤の第九回*1になった模様。よって今回は二項目だけ。

* * *

  • Hilbert: Informal causes
    • ヒルベルト:「非公式の/非形式的な原因」・・・めちゃくちゃカジュアルな原因だったりして――ってどんな原因やそれ。
    • D. Hilbertは、「点、線、それに平面と言うかわりに、いつでもテーブル、いす、それにビールジョッキというように言い換えることが出来る」という言葉に象徴される、「形式主義formalism」の基礎を築いた人です。つまり、ユークリッド幾何学の公理におけるような「点」とか「線」とかいった表現は、何か実際の点とか線いったものについて述べているわけではなく、それらは単に「無定義述語」として理解されるべきなのであって、要するに公理においてはそれぞれの表現相互が整合的でありさえすれば良いのだ、というわけです。数学(算術)というのは結局、公理系内部の事柄に尽きており、従って「数学的対象」とは、そうした体系内部でいわば関係的にのみ措定されるに過ぎない――いわゆる「算術の公理化」、あるいは「形式化」です。となると、形式的体系の公理系としての数学において最も重要となって来るのが、当の公理系自体の無矛盾性だということになります。そこで、あらゆる数学を形式化した上でその無矛盾性を証明する必要が出て来て、そのためのプログラム(「ヒルベルトのプログラム」)を進めて行こうとするのですが・・・後はご存知の通り、ゲーデルが(第二)不完全性定理を証明したことによって見事に撃沈することになります。ただし、逆に言えばこの定理の証明が可能となったのは飽くまでも、ヒルベルトによる数学の形式化というアイディアがあったからだということは、忘れちゃいけないでしょう。つまり、数学の無矛盾性を証明するための手続きとしてのメタ数学だって結局は算術化かつ形式化することが出来てしまうので、それによって初めて、「算術を含む形式的体系の無矛盾性は、それが無矛盾である限り、当の体系内では証明できない」ことが証明されるに至ったわけです(Godel*2の項も参照)。でも、となるとヒルベルトの「死因」はむしろ・・・「ゲーデルの致命的な証明による」。
  • Kim: Supervened on nothing
    • キム:「何にも付随(スーパーヴィーン)しなくなった」・・・「無に付随するようになった」だと抽象度が上がるけど、何だか逆にちょっとカッコイイ・・・か?
    • supervenienceの日本語訳には、個人的な印象としてより定番となっていそうな順に、「付随性」、「随伴性」、「随伴生起性」、「重生起性」などがあるようです。「スーパーヴィーニエンス」とカタカナ表記する人もいます。となれば、ここは国立国語研究所のみなさんの出番でしょう――ってつまらない冗談はさて置き。J. Kimは、「因果関係の下にあるもののみが真に存在する」との信念の下、物理主義を採ります。つまり、世界の出来事は究極的には物理科学によって説明され得るというわけです。一見当たり前のようですが、問題は心的な現象に関してです。彼は、科学は単に描写的であるに過ぎない一方で、信念や意図などといったいわゆる命題的態度は規範性を持つことを認めます。彼は物理主義を採るので、もちろん、物的なものの領域の他に心的なものの領域を認めるような二元論など眼中にありません。では、心的なものの規範性までをもそっくりそのまま物理的な出来事として描写出来る――つまり、消去的還元(Churchland(s)の項、参照)出来ると考えるのかと言えば、そうでもありません。そこで彼の用いる道具立てが、心的なものは物的なものにスーパーヴィーンsuperveneするという考え方で、こうした立場は「随伴現象説(epiphenomenalism)」と呼ばれます。ただ、彼の立場は単に心的なものに関してのみの随伴現象説なのではなく・・・長くなるので、詳細は別途囲み記事で。いずれにせよ、何かにスーパーヴィーンすることで生きていた彼も、とうとうその何かとの関係が途切れてしまったというわけです。

「スーパーヴィーニエンス」という概念は、実はデイヴィドソンが最初に導入したもので、最も一般的かつ基本的な定式化はこうです。

 ある性質・出来事Mの集合がある性質・出来事Pの集合にスーパーヴィーンするのは、Pに何の変化・相違も無いならMにも何の変化・相違も無い場合、かつ、その時に限る。

この定式中の性質・出来事Mとして心的性質ないし心的出来事だけを取るのが、心的なものに関しての随伴現象説です。その時、この考え方の(少なくとも一見したところの)利点は大きく分けて二つあります。

  • 心的性質・出来事(M)が、物理的因果性に閉じている物的性質・出来事(P)の領域と関係づけられることになるため、いわゆる二元論を避けることが出来る。
  • だからと言って、心的性質・出来事を完全に物的性質・出来事に消去的還元してしまうような(唯物論的)一元論ほどラディカルでもない。

要するにこれは、いわば両者の中間を行く立場としての、非還元主義的な物理主義だと言えます。しかし、このような非還元主義的な物理主義には問題もあります。

  • まず、消去的還元主義的な物理主義に取り込まれることを避けようとするあまり、MとPとの間の関係を緩めるような弱い定式化を取ってしまうと、心的性質・出来事がいわば「浮く」ことにも繋がり、結局は二元論と大して変わらなくなってしまう。
  • 他方、そうした二元論からも距離を取ろうとするあまり、MとPとの間の関係をより緊密にするような強い定式化を取ってしまうと、今度は、皮肉にも消去的還元主義的な物理主義と変わらなくなってしまう。

キムは、デイヴィドソンに代表されるようなこうしたどっちつかずの非還元主義的な物理主義(特にデイヴィドソンに関して言えば、「非法則論的一元論」)の余地を認めません。

では、キム自身のポジティブな立場とはどういうものなのか。なんと彼は、たとえば「石がガラスに当たって割れた」という、日常的な観察レベルでは明らかに物理的な因果関係が成り立っているように思える、それゆえ普通はPとしてしか取られることはないような現象までをも、先の定式におけるMに入るものと捉えるのです。つまり、そうしたレベルの現象自体においては本当の意味での因果性が成り立っているわけではなく、実はそれはもっと根本的な、つまりよりミクロなレベルの性質・出来事相互の連関にスーパーヴィーンしているのだ、と考えるわけです。

でも、「より根本的なレベル」とは? 実は、そうした遡及はどこまでも続いて、原子同士の連関どころか、さらにはそうした原子同士の連関がまた、それぞれの核・電子相互の連関にスーパーヴィーンしているとも考えられ、さらにまたそれらは実はクォーク同士の連関に・・・というように、どこまでも因果性の根を辿ることになります。こうした考え方は、心的な現象に関しても全く同様に当てはまるというわけです。

スーパーヴィーニエンスという道具立てを使って、二元論にも消去的還元主義にも与しない随伴現象説を取っていながらも、だからと言って非還元主義的な物理主義に与するわけでもない――要するにキムの立場は、消去主義的でない物理主義の一形態だと言えます。

とはいえ、ついさっき示唆したことだけからも、この立場の危うさは明白でしょう。キムの立場は、創発的因果性(よりマクロなレベルの現象までをも律するような因果性で、根元的なレベルにおいて成り立っているであろう真の因果性から創発したと考えざるを得ない、それとは種類を異にしている因果性)の存在を否定することに依存しています。彼は、還元された理論と(そこへと)還元した理論との間には必ず架橋法則が存在すると考えていて、その存在こそが、創発的因果性の存在を否定し得るための論拠となると考えているのですが、しかし、そうした架橋法則の存在を示すことは困難でしょう。たとえばデイヴィドソンなどは、心的出来事に関する一般法則と物理法則との間には、いかなる架橋法則も存在しないと主張しました。

(以上は飽くまでも個人的なノートなので、内容に関しては全く保証しません)

* * *

なにやってんだろ・・・。

*1:2003-11-8の企画趣旨、参照

*2:'o'にはウムラウトが付きます。