"Causes of death of philosophers" Part17

http://www.dar.cam.ac.uk/%7Edhm11/DeathIndex.html

まだ続くのかよの第17回目*1

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  • Rorty: No foundations
    • ローティ:「(生活?)基盤が無くなった」
    • R. Rortyは、その主著『哲学と自然の鏡』(野家啓一 監訳、産業図書 ASIN:4782800800)において、哲学者は伝統的に「哲学は知識の基礎を明らかにするものだ」と考えているようだが、それはある誤った描像に基づいた見方に他ならないと論じました。彼に言わせれば、哲学は伝統的に、私たちの「心」を「実在ないし自然を正確に表象するための特権的な特徴を持った鏡」という描像の下に捉えて来たことになります。つまり、そうした描像の下にこそ初めて、他ならぬ理性的な私たちは実在をどのようにして正確に知るのかを問う認識論ないし知識論が可能となっているのだというわけです。さらにまたローティは、多くの哲学者たちは、こうした「知識の基礎づけ」という哲学観の下に、「哲学こそがあらゆる学問の基礎だ」と考えているようだが、それはそもそも誤った描像に基づいたものであるため幻想に過ぎない、と指摘します。伝統的な認識論を「言語(概念)分析」という方法論によって乗り越えたと考えられることが多い分析哲学ないし言語哲学に関しても、彼は、伝統的な認識論が思考を「私的」な「自然の鏡」と捉えていたのに対して、分析哲学ないし言語哲学では「公共的」な「自然の鏡」と捉えられるようになったに過ぎず、根本的なドグマは全然払拭されていないと批判します。方法論がどう変わろうと、そもそも「心と世界との間の関係」について考えようとする発想それ自体が誤りなのだというわけです。いずれにせよローティは、「知識の基礎づけ」とそれに基づく「あらゆる学問の基礎づけ」といういわば二重の意味での「基礎づけ主義(foundaitionalism)」を徹底的に批判し、拒否するわけです。結局のところ、彼自身が提案する「鏡なしの哲学」とは、「対話しか存在しない(There is only the dialogue)」というスローガンに象徴されるように、かなり根本的なプラグマティズムだと言えるでしょう。で、彼の「死因」は、何であれ生きて行く上での安定した「基盤(基礎)」を失ったため、ということなんでしょうか。
  • Russell: Cut himself shaving
    • ラッセル:「自分自身を剃り落とした」・・・これは珍しく、というかむしろ初めて、まとも、かつ、生々しい「死因」ですね。
    • 「頭が最も良く働く時に数学をやり、少し悪くなった時に哲学をやり、もっと悪くなって哲学も出来なくなったので歴史と社会問題とに手を出した」らしいB. Russellが、算術を論理学の上に基礎づけるという試みに専念していたフレーゲに対して、その死亡宣告とでも言うべき「パラドクス」を(手紙で)突き付けた話は良く知られています。この「ラッセルのパラドクス」の一般向けの説明をラッセル自身は、『数理哲学序説』(岩波文庫 ASIN:4003364910)の中に、「村の理容師のパラドクス」として書いています――ある村にただ1人の理容師がいて、自分で自分自身の髭を剃らない村人全員の髭だけを剃るものとした時、この理容師は自分の髭を(a)剃る・・・彼は「自分で自分自身の髭を剃る村人」となり、彼が髭を剃る対象からは除外されることに。/(b)剃らない・・・彼は「自分で自分自身の髭を剃らない村人」となり、それゆえ彼は自分自身の髭を剃る対象に含まれることに。ということで彼の「死因」は、こんなパラドクス的状況にもかかわらず強引に剃刀を振りかざしてしまったがために、論理法則を冒した罰として(?)天の鉄槌が下り、意志に反して自らを剃り落とすことになってしまった・・・?

クワインの項で「記述の理論」が出て来た際、後でラッセルの項で説明するとウカツにも言ってしまった手前、簡単に書いておくことにします。

まず、ラッセルは基本的には、「言葉の意味とはその指示対象のことだ」という素朴な考え方を受け容れていました。ですからたとえば、「富士山」の意味はその指示対象である富士山だということになり、「富士山は日本一高い山だ」という文は、富士山について、それは日本一高い山だ、ということを意味していると考えられます。その時、富士山が実際に日本一高い山であれば真となり、そうでなければ偽となる、というわけです。一見、ごく当たり前の話のように聞こえるかも知れませんが、しかしたとえば、次のような文についてはどうでしょう?

  • 「現在のフランス王はハゲである」

言うまでもなく、「現在のフランス王」が指示するものなどそもそも存在しません。ということは、この文全体の意味を構成する要素が欠けてしまっていることになるでしょう。ここで「ハゲである」と言われているのは一体何なのか、というわけです。では、この文全体はそもそも無意味であり、それゆえ真偽を問いようがないと言わなくてはならないのでしょうか?

そこでラッセルの提案する分析が、「記述の理論」と呼ばれるものです。要するに、今の文は、たとえば次のような記述の連言として分析され得るだろうというわけです。

  • 「現在生きている人であり、かつ、フランス国民であり、かつ、王であり、かつ、ハゲであるような人が(少なくとも一人)存在する」

このように分析されたならば、元の文は、ここにおいて「かつ」で繋げられている記述をすべて同時に満たすような人が存在する、ということを言っているものと捉え直されることになります。その時、これら4つの記述は、それぞれ別々に考えられたなら、どれも指示対象を持つと言えるでしょう。従って、どれも有意味だということになります。ですからそれらの記述を構成要素とするこの文全体もまた、有意味だと言えるわけです。その上で、実際にはこれらの記述をすべて同時に満たすような人は存在しないため、この文全体は端的に偽だと言えることになります。

めでたしめでたし(?)。

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この調子じゃ、この企画は年を越しそうです。

*1:2003-11-08の企画趣旨説明、参照。