ホームドラマ in 時代劇

いや、別に『トワイライト・サムライ』として有名になったからじゃなくて。

前々から観たいと思ってたのに、レンタル屋に行く度、DVD版は貸し出し中になってたので。

で、今回ようやく借りて観ることが出来たってわけ。

たそがれ清兵衛』――えがった。なんか、しみじみとえがったでがんす。

ナレーション、特にラストのナレーションが余計だったという感想が結構目立つけど、僕としては全くの逆。このナレーションの部分で思わずハラハラと来てしまった・・・。余韻が削がれるどころか、むしろドップリと浸かることが出来た。

だって、全くの第三者的なナレーションだったら確かに余計かもしれないけど、この作品の場合はそうではなく、娘の視点から父・清兵衛について回想するという形が取られているわけで、それによってなお一層、この作品の輪郭が明確になっているような気がする。小説でもそうだけど、実は個人的にはこういう、いわば「後日談」的な形式が結構好きだったりする。つまり、本編での主人公の姿を「直接的に」追うことはせず、作者の視点から、あるいは映像作品の場合には作中の主人公以外の人の視点から、「間接的に」物語る形式だ。だからまあ、元々のそうした傾向のせいでもあるんだろうけど。

前にも書いたように、『ラストサムライ』の登場人物にはことごとく感情移入出来なかったのに対して、『たそがれ清兵衛』の場合はさすがにすうっと入って行けた。「外側から」描かれているものと「内側から」描かれているものとの違いを(もちろん、飽くまでも個人的にだけど)ハッキリと感じた。前者で描かれていたのは徹頭徹尾「人形」だったけど、後者の場合は「人間」だもの(って相田みつを?)。

庄内訛りを(比較的)コテコテにしゃべってくれたのも良かった。そう言えば(テレビ東京での十二時間ドラマ版の)『壬生義士伝』でも、吉村貫一郎役の渡辺謙の南部訛りにやられっぱなしだったっけ――あ、どちらも東北訛りだ。

これまで「時代劇」と言えば、いわゆる看板役者を「魅せる」ための舞台に過ぎなかったり、あるいはそうでない場合は、「善」側が「悪」側を大量殺戮することに基づくコテコテの「勧善懲悪」であったり、何というか、いずれにせよあまりにも「形而上的」な世界観を呈しているのみだったような気がする。しかも最悪なことに、その「形而上的」で陰鬱にしゃちほこ張った世界観が、いわゆる「時代劇」の、いやそれどころか、実際のその当時の世情に関するイメージの、ステレオタイプと化してしまっている感さえある。

でも、時代劇にだってホームドラマがあったっていい。いやむしろ、これまでに殆ど無かった(少なくとも、個人的にはあまり馴染みがない)こと自体が不思議でならない。いつの時代にだって「ホームドラマ」はあったはずだ。そしてそう言う意味では、時代劇を「形而下」に引き戻そうという動きを積極的に見せているように思えるのが、意外にもNHKだったりする。

それはそうと、藤沢周平原作&山田洋次監督作品の第二弾が今秋公開予定らしい。

隠し剣 鬼の爪
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