森本浩一『デイヴィドソン』

NHK出版から「哲学のエッセンス」というシリーズが出ています。「それぞれの哲学者について専門から少しはずれた立場の執筆者が、自分の問題関心にそくして書く」という趣旨のようです。実は、これまで一冊も読んだことが無かったのですが、今回ばかりはさすが気になったので、買って読んでみました。

『デイヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか』(森本浩一 著、NHK出版)*1

今までに出ているデイヴィドソン関連の文献としては、やはり真理条件的意味論のプログラムに焦点を合わせたものが多かったように思われます。しかし後期デイヴィドソン*2は、特に論文「碑銘の素敵な乱し方 A Nice Derangement of Epitaphs」以降、野矢茂樹氏いわく(in 『哲学・航海日誌』)の「コミュニケーションのアナーキズムという考え方を全面展開するようになります。

デイヴィドソン自身は、こうした考え方は当初から持っていたとは言っていますが、やはり実際のところは、ちょっとした「転換」*3があるように思われます。実際、たとえば飯田隆氏のように、この「転換」を多少なりとも苦々しく感じている人がいます。野矢氏の場合は、飯田氏とは全く逆に、真理条件的意味論のデイヴィドソンにはあまり関心を抱いていなかったのに対して、「碑銘」論文以降のデイヴィドソンには注目するようになっています。規範性の軽視という観点から「コミュニケーションのアナーキズム」を批判してはいますが、それでも、自らの「言語ゲーム間コミュニケーション」という考え方とある重要な点で親和性があることを見て取っています。Michael Dummettに至っては、そもそも「意味の理論」としての真理条件的意味論のプログラム自体にも反対だったのに、その上「言語なんて存在しない」とまで言い出すか!ってな感じで、やはり何度か論争しています(とうとう決着はつかないままだったような気がしますが・・・)。

さて、そして今回の森本氏の本はと言えば、デイヴィドソン哲学をこの「コミュニケーションのアナーキズム」という考え方を中心に(しかもそれを肯定的に)解説するものとなっています。これは、日本語で読めるものとしてはもちろん、あるいは英語圏でもまださほど見られない(かもしれない)画期的な試みだと言って良いのではないでしょうか(ですから、逆に言えばその点に対する批判を受けることになるかもしれませんが、しかしだとしたら、それはあまりにも偏狭な見方に基づくものだと思われます)。その上思わず感心してしまったことは、叙述の仕方が実に丁寧で分かり易いんです。「易しさ」のために厄介な論点についての説明は避けているのかというと、決してそうではありません。むしろ、厄介なはずの論点も実に詳細かつ分かり易く説明してくれている程です。そして、前期の真理条件的意味論のアイディアから後期の「コミュニケーションのアナーキズム」へとごく自然に繋がって行く叙述は、思わず(見とれて、ならぬ)「読みとれて」しまう程です。

デイヴィドソン哲学を、あるいは言語哲学を専門に研究している人には、恐らくこうした本は書けなかっただろうと想像されます。著者の森本氏の専門は「文学の理論」となっていて、本人はあとがきで「あまりのミスキャスト」などと言っていますが、僕に言わせれば「ベストキャスト」だったと思います。他の著者たちの書きぶりがどうであるのかは分かりませんが、もしこれほどの水準であるなら、このシリーズの別の本も読んでみようかなという気になります。もちろん、近刊予定の飯田隆氏による『クリプキ*4は端から読むつもりでいますが。

*1:ちなみにAmazonの表記では(直されてなければ)、「『言語』なんで存在するのか」という、デイヴィドソンに完全に喧嘩を売った形の表記になっている。でも、ちょっと笑う。

*2:すでに故人なのでこういう言い方をしても構いませんよね?

*3:「転向」とまで言ってしまうともしかしたら言い過ぎかもしれないので、ちょっと控えめに・・・。

*4:この組み合わせって果たして「専門から少しはずれた」という趣旨に合っているのか?という疑問はさておき。