「ケータイ通話の禁止」をめぐる議論からはじめる倫理?!

先日、N氏と(今さら?)「電車内での携帯電話の使用(通話)」について話した時のこと。電車やバスの車内で携帯電話を使って話すこと(以下、「ケータイ通話」)はなぜ「迷惑」なのか、が主な論点になりました――電車の真っ直中で(というのはさておき)。

N氏は、別に迷惑だと思わないという立場で、僕自身は、迷惑に感じるという立場だったので、幸いにもディベート的な状況になりました。N氏の考えでは、おしゃべり一般ではなくケータイ通話だけを禁止するようなルールには実は独立の正当な根拠はなく、「ケータイ通話の禁止」は単に、客同士のトラブルを回避するためにいわば便宜上(明示的に)規定されたものに過ぎないということでした。僕の方はそれに対して、不特定多数が集まる狭い空間内でのケータイ通話に伴っている可能性のある特有の現象を、思い付く限り挙げてみました。つまり、もしそうした現象が実際に存在するのだとしたら、それは(おしゃべり一般ではなく)ケータイ通話を特に規制するための1つの正当な根拠になり得るのではないか、と思ったわけです。しかしN氏は、僕が根拠として挙げる可能性を逐一却下して行きました。とはいえ、その却下すべてに僕自身も納得したというわけではなく、その内の少なくとも1つの可能性は比較的有力なのではないかと密かに思っています。

ただ、N氏の論点にも一理あるような気はします。N氏によれば、一旦そうしたルールが明示的に規定されてしまうと、皮肉にも正にそのことによって、そのルールが無い時には他人のケータイ通話を迷惑に感じていなかった人たちまでもが、ケータイ通話それ自体が迷惑というよりもむしろ、ケータイ通話をしている人を単に(?)「ルールを守らない人」として迷惑に感じるようになって来るのではないか、というのです。だからもしかすると、少なくとも(ルールが明示的に規定されて久しい)現在、ケータイ通話をする人に迷惑を感じると訴える人たちの多くは、実はケータイ通話自体を本当に迷惑に感じているわけではないのかもしれない。実際、小さな声でケータイ通話している人にさえ「迷惑」を感じる場合があるのだとすれば、それこそがその証左なのではないか、と。

実際そうした側面が少なからずあるだろう、とは僕も認めました。でもやっぱり、それでもなお、そもそもそうしたルール、つまり、おしゃべり一般ではなくて特にケータイ通話を禁止するルールが出来た背景には、ある種の正当な根拠があるのではないかとは思ってます。自分では何とも実証することが出来ないので、ここではその可能性について具体的に述べるのは控えますが、要するにN氏による論駁を免れている(と僕が勝手に思っている)と先に述べたもののことです。いずれにせよ、実証できない可能性をいつまでも「正当な根拠」だと言い張っているわけにもいかなかったので、一理あるN氏の考えに一旦乗ってみることにしました。N氏の基本的な考えはこうでした。「ケータイ通話の禁止」は単にトラブルを回避するために便宜上規定されたルールであるに過ぎず、それ自体に独立の正当な根拠があるわけではない。仮にこの考えを受け容れた場合に帰結し得る1つの可能性に思い至ったので、僕はN氏に確認してみました。

「ということは、逆に、『(優先席付近以外で)携帯電話をご使用になることはお客様個人の自由ですので、そのような周囲のお客様に対して注意なさることはお控え下さい』っていうルールであっても良かったわけだよね?」――じゃあどうしてそっちのルールではなく、今現にあるルールの方(「ケータイ通話はご遠慮下さい」)が採用されたんだろう、と。

するとN氏は、どうしてそれを自分が思い付かなかったんだろうと悔しがっていました。それはたぶん、これは一般的には「逆転の発想」の一種だからでしょう。しかしもしそうだとすると、具体的にどうしてこれが「逆転」だと一般的には思えるのでしょうか? それはたぶん、(トラブル回避に有効なルールを便宜上規定する、という前提の下では)「ケータイ通話それ自体」を禁止する方が、「ケータイ通話している人を注意すること」を禁止する方に比べてより自然だと思えるからではないでしょうか。つまり、ケータイ通話している人に迷惑を感じることが、仮に一般的なことではなく単に個人的なことに過ぎないのだとしても、一旦、「他人のある行為を注意する」という形式を持った事態が立ち現れて来ると、僕らはたぶん、「注意される側」が悪で「注意する側」が善、という構図を自然に当てはめてしまう傾向があるのではないでしょうか(それに対して、N氏が先の僕の提案をバカにするどころか、むしろ「どうして思い付かなかったのか」と悔しがったのは、氏が一定の哲学的・倫理学的思考の訓練を受けているからだと思われます)。

しかし実際には、必ずしもそうした構図が当てはまるとは限らないことは言うまでもありません。実際には、ある他人の行為に対して、全く不当な理由から、あるいはそもそも全く何の理由もなく、注意するような人がいてもなんら不思議はないはずですし、それどころか、現に多くの人が、そうした場面に遭遇したことがある(自分が当の「被害者」や「加害者」にさえなったことがある)のではないでしょうか。にもかかわらず、どういうわけか一般的には、先に挙げたような構図の方がすんなり受け容れられる傾向にあり、だからこそ、「ケータイ通話している人を注意すること」を禁止するようなルールがいわば「非常識」に思えるのでしょう。「正しいこと」を禁止するなんて馬鹿げているとして、端から考えに入れられる可能性が拒否されているわけです。でも、単に「他人の行為を注意すること」一般は、それ自体間違っているわけではないのはもちろんですが、それと同時に、それ自体で正しいわけでもまたないはずです。

従って、「ケータイ通話している人を注意すること」の方を禁止するのではなく、敢えて「ケータイ通話それ自体」の方を禁止するのであれば、単に誤った常識/非常識観に基づいているに過ぎないと認めるのでない限り、やはり、そちらを選択するに足るだけの説得的かつ正当な根拠を提示してもらう必要があると言えるでしょう。もしそうした根拠が今までに提示されていないのだとしたら(あるいは実際には、心理学者か誰かが提示してたりするのでしょうか?)、どこかの鉄道会社かバス会社で、「ケータイ通話している人を注意すること」の方を禁止するルールが規定されても良いように思います。むしろ、そちらのルールを規定する会社が全くないことの方が不思議だとさえ言えます。なぜなら(飽くまでもN氏の考え方を前提した場合には)、「トラブルを回避するために便宜上規定された」という点では、そのルールだって、「ケータイ通話それ自体」の方を禁止することと対等であるはずだからです。


――以上、どこへ行くのか分からないけど逆に言えばどこへでも行けそうなこうした「議論」でも、少なくとも広い意味では恐らく「倫理的思考」に属していると言ったってイイじゃないか、というような気が個人的にはしないでもありません。実際のN氏とのやり取りがあったのは下の『ここからはじまる倫理』を(読むどころか)買う前のことだったのですが、今回、この本のさわりを読んだ際にふと思い出したので、一応書いてみました。ただ、もっとコンパクトにまとめる予定が・・・。