パラドキシカル・コピー

「コピー」と言っても「複写」ってことじゃなく。

「物より想い出」というコピーでもって商品というを売り込もうとしたり、「他人に流されない、というスタイル」というコピーに消費者が流されて商品を買ってくれることを望んだり・・・広告業ってなかなかパラドキシカル。

「マズイ! もう一杯!」とか「こんなもん売れるかぁ! 買わんでいいゾ!」とかいった直球パターンもあるけど、これはまた前者のパターンとはちょっと趣が違う。

前者のパターンの場合、消費者は当のコピーの内容に(いわば)絆されて、その商品に対する購買意欲が掻き立てられることになり、そしてその結果として、その消費者の行為自体はコピーの内容に反するものとなってしまう、という形を取る。ここで肝心なのは、消費者はその際、自分の行為が当のコピーの内容に反しているとは必ずしも自覚していない、という点。

対して、後者のパターンの場合、消費者は当のコピーの内容にというよりもむしろ、その内容のパラドキシカルさ(自虐性)自体に絆されて、その商品に対する購買意欲が掻き立てられることになり、そしてその結果として、やはりその消費者の行為自体はコピーの内容と調和しないものとなる、という形を取る。しかしその際、消費者は、自分の行為が当のコピーの内容と調和していないことに対して充分自覚的である、という点が前者とは異なる。

要するに、前者の場合には、消費者はコピーの内容それ自体に絆されることとなるのに対して、後者の場合には、むしろ、そのようなコピーを敢えて打ち出して来た(採用を許可した)広告主の心意気(?)に絆されることとなる、というわけだ。もちろん、結果的にはどちらも「コピーに対して積極的に応答した」ことになるという点では、事情は全く変わらない。ただ、それでもなお、結果的には実質的な違いを生じるように思う。

前者の場合には消費者は、後で自覚的になった際にそれこそ「流された」感を持ってしまいがちであるのに対して、後者の場合には、購買時においてすでに自覚的であったこともあり、「自分が決めた」感が強く残り続けることだろう。具体的にはたとえば、手に入れた商品が気に入らなかった時、前者のケースでは「騙された/やられた!」感を持ってしまいがちであるのに対して、後者のケースでは、「仕方がない」という諦念を持つにとどまることだろう。だって、「マズイ!」とか「買わんでいいゾ!」とか直球で言われているのにもかかわらず、敢えて買うことを自覚的に決定した――という形を取ったことになっているのだから。

後者のケースにおいても、消費者は真に「自分で自覚的に決定/選択している」というよりも、むしろ実際には、正にそうした印象を抱くように「流されている」に過ぎない、と言うことも出来るだろう。そう考えると、「自分で決める」とか「自分で考える」とかいった昨今もてはやされている感のある言い回し自体が、ひどくいい加減かつ曖昧なように思えて来る。

一体、どこまでが本当に「自分で決め」、「自分で考え」たことになるのだろうか?(っていうか、まさかこんな話しになるとは・・・。)