料理の条件法

料理繋がりはたまたまのことなんだけど。
冷蔵庫の中にある材料で何かちょっとしたものを作ろうとして、ネットでレシピを検索することが時々ある。
そしていろいろなレシピを読んでいる内に、料理界独特の言い回しが存在しているような気がしてならなくなった。
たとえばこういう表現・・・

  • ごま油が熱くなれば、とうがらしを取り出します。

どこか不自然さを感じないだろうか。まあ、「特に何も感じない」という人だって居るには居るのだろう(実際、少なくともこれを書いている人自身はそうなのだろう)が、もし感じるとしたら、それは「・・・れば」という部分に関わっているように思う。だってこの言い方だと、まるで(この例で言えば)「ごま油が熱くならない場合もあるが、そういう場合は、とうがらしを取り出さなくて良い」みたいではないか。

  • 干しシイタケは水につけてもどし、やわらかくなれば、石づきを除き、みじん切りにします。

この「・・・れば」もそう。なんだか、まるで「やわらかくならない場合もあるが、そういう場合は、石づきを除いてみじん切りにする必要はない」みたいではないか。
しかし当然、どちらの表現においても、熱されたごま油が熱くなることや、水につけられた干しシイタケがやわらかくなることはそれぞれ因果・必然的だと前提されているはずなのだ。そうならない可能性など、実際そこでは微塵も想定されていない。

その他にも、この種の表現ならいくらでもある。

  • 冷めれば、酢も加えて混ぜ合わせます。
  • ひと煮立ちすれば、スープの素を加えて混ぜます。
  • 蓋をはずして周囲がカリッとすれば、フライパンの縁からしょうゆをまわしかけます。
  • 焼き上がれば、型のまま底面を上にして冷まします。

etc...

何だか変だ。どこかが変だ。でも・・・何がどう変なのか、イマイチはっきりとは掴みづらい。
ただ、それぞれたとえば・・・

  • ごま油が熱くなったら、とうがらしを取り出します。
  • 干しシイタケは水につけてもどし、やわらかくなったら、石づきを除き、みじん切りにします。
  • 冷めたら酢も加えて混ぜ合わせます。
  • ひと煮立ちしたら、スープの素を加えて混ぜます。
  • 蓋をはずして周囲がカリッとしたら、フライパンの縁からしょうゆをまわしかけます。
  • 焼き上がったら、型のまま底面を上にして冷まします。

のようであれば、不自然さは解消されるはずだ。一般化するなら、「・・・(す)れば」と「・・・(し)たら」の違いということになるだろうか。
どちらも、いわゆる条件法を表現する際に用いられる言い回しではある。にもかかわらず、こうした文脈における「・・・(し)たら」という表現には、そうならない可能性など一切含意されていないような感じがする。
じゃあ、「・・・(し)たら」というのは一般に、こうした文脈における「・・・(す)れば」のような条件法を表現することが出来ないのかと言えば、もちろんそんなことはないだろう。
となると、一体、前者のクラスのレシピ表現はなぜ不自然に響いて、後者のクラスの表現はなぜ自然に響くのだろうか・・・。
何より、なぜ料理界では、わざわざ後者のクラスではなくて前者のクラスのような表現方法が採用されているのだろうか・・・。
単にたまたまそれが慣習となっているに過ぎないのか、それとも、何か実質的な理由が存在しているのか・・・。