クリプケンシュタイン

飯田隆 シリーズ・哲学のエッセンス クリプキ -ことばは意味をもてるか-』NHK出版

僕がこのシリーズで他に読んだことがあるのは、以前に書いた通り『デイヴィドソン』だけなのだが、その本で扱われていたのはいわば、デイヴィドソンのコミュニケーション論の(への?)変遷であった。だから必然的に、いくつかの主要論文が採り上げられていた。

それに対して今回の『クリプキ』では、そのタイトルとなっている哲学者が書いた1つの著作だけに焦点が絞られている。副題(ことばは意味をもてるか)を見た時から恐らくそうだろうとは推測していたのだが、案の定、この本のテーマはクリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス -規則・私的言語・他人の心-』(黒崎 宏訳、産業図書)だった。飯田氏らしい、相変わらずの着実な解説書になっていると思う。

ウィトゲンシュタインのパラドクス』自体、他の多くの哲学書やいわんやウィトゲンシュタイン自身のものとは違い、何がどうして問題で、そしてそれをどのように考えたら良いか、ということが非常に明快に書かれた著作である。実際、飯田氏本人も最後の「読書案内」の所で、「いまさら言うのも気が引けるが、クリプキの仕事の解説がほしければ、じつは、クリプキ自身の著作にあたるのが最良の道なのである」として、『ウィトゲンシュタインのパラドクス』自体を読むことを薦めている。

とはいえ、今回のこの本(『クリプキ』)もそれ自体でかなり良くまとまっているため、それだけで『パラドクス』の内容を理解した気になれてしまう(そして実際、それは必ずしも勘違いではない)ということも確かだ。この本を読んだことで、『パラドクス』の方は読まなくて良いやと考える人が増えてしまうのではないか、と余計な心配をしてみたり。ただ、『パラドクス』を読んでからその内容理解の整理として読んだり、あるいは、『パラドクス』を一度読んだことのある人がその内容のリマインダーとして読んだりするのには適しているかもしれない。

クリプキは、その著作の中で提示しているのは彼自身の考えでも、またウィトゲンシュタインの議論そのものでもなく、飽くまでも、「クリプキの目に映じた限りでのウィトゲンシュタインの議論」であるとしている。そうした議論は今や、「クリプキウィトゲンシュタイン」とか、もっと縮めて「クリプケンシュタイン」とか呼ばれる、いわば仮想哲学者に帰される。飯田氏はそれを、ウィトゲンシュタイン、グッドマン、ヒューム、クワインに負っている哲学者として位置づける。そして、今回の本のタイトルが『クリプキ』である理由として、氏は、その哲学者を発見したのが彼であるからとするのである。

――なるほど。