『父と暮らせば』

井上ひさしの、舞台化もされている戯曲が原作の映画。広島に原爆が投下されてから3年後、偶然にも生き残った福吉美津子は、焼け残った自宅(旅館)で独り暮らしをしていた――ハズなのだが、ある日を境に、原爆で亡くなった父親が幽霊となって現れ・・・・・・。冒頭からしばらく、父親が幽霊であることがあまりハッキリとは示されないところが効果としてちょっと面白い。しかも美津子も、別段そのこと――父親が幽霊となって現れたことと、幽霊とはいえ再び父親に逢えたこと――に関してなんらの感慨を持つでもない風なのが、さらに面白い。

あの日、生き残った者と死んで行った者――美津子の言葉を借りれば、しかしあの状況下では「生き残る方がおかしい」。生き残った上に幸せになる権利なんて自分にはないと、死んで行った者、「本当は自分なんかよりもっと生き残らなきゃいけなかった」者たちに対して尋常ならざる負い目を感じながら日々を送る美津子は、気になる人が出来てもやはり肝心な所で再び陰に籠もるように。そんな、生き残った者代表の美津子を、いわば死んで行った者代表である父親が「応援団長」となって叱咤激励する。時に飄々と、でも時に熱く、厳しく、美津子に接する父親。そんな父親の魅力的なキャラクターは、重苦しくなりがちな雰囲気を和らげてもくれる。ラスト、自らの(敢えて言うなら)「トラウマ」の本当の正体に気づいた美津子と父親との間の文字通り魂のぶつけ合いが圧巻。いかにも舞台劇映えしそうなシーンでもある。

美津子のあまりの頑なさは、見ていて辛くなるほど。「何もそこまで・・・・・・」という感想を持つ人もいるだろう。でも、それが、この作品のおそらく一つのテーマでもある。大勢の人たちの命が一瞬にして奪われたことの非情な残酷さは言うまでもなく、生き残った者にまで深い負い目が刻み込まれることとなった残酷さをも、まざまざと痛感させられる。美津子に対する父親の言葉は、無念にも死んで行った人たちが、戦後生き残った人たちやその子孫である僕らに託したかったであろう思いを、いわば代弁してくれているのかもしれない。

この作品を、「原爆シーンがない原爆映画」と紹介している人もいるけど、でも正確に言えば、無いことは無い。たとえば、投下・爆発の瞬間は描かれている。ただ、恐らくその人の言う「原爆シーン」というのは、『はだしのゲン』で克明に描かれているような、爆発直後の地獄絵図のことなのだろう。確かにそうしたシーンはないものの(それこそ「絵図」によるイメージの挿入はあるけど)、でもむしろそのことによって、テーマが鮮明に浮き彫りになっているように思う。宮沢りえ原田芳雄による(ほぼ)二人芝居は、もちろん広島弁によるもので、その朴訥さがまた逆に切実なリアリティをもって訴えかけて来る。

やはり全体的に舞台劇っぽさは感じられるものの、こうした作品を敢えて映画化したことの意味は大きいと思う。