徳岡孝夫『横浜・山手の出来事』(双葉文庫)

「第44回日本推理作家協会賞 評論その他の部門賞」を受賞した、「ミステリー・ノンフィクション」明治26年に横浜の外国人居留地で実際に起きた事件の裁判記録を、著者が丹念に読み込んで再構成した後、自らがイングランドで行った取材の顛末とその「結論」とが綴られている。社交場の支配人を勤めていたカリューが死亡、解剖の結果、体内からは砒素が検出された。しかし、その死には不審な点があるとして、その夫人が被疑者として訴追されることに。果たして、カリュー夫人は本当に夫を殺害したのか? それとも自殺? あるいは事故死? 謎の「黒衣の女」は家庭教師のジェイコブなのか、それともカリュー夫人の自作自演?

あらすじ紹介を聞いた限りでは、確かにちょっと面白そうだと思えるかもしれない。何より、これがフィクションではなくノンフィクションだという点に興味を惹かれる。でも残念ながら、さほどのめり込むことはできなかった。著者が要領良くまとめてくれてはいるんだろうけど、それでも、内容的な繰り返しが多く、何故か触れられることもない矛盾も散見される裁判記録をひたすら読まされている内に、一体何が論点になっているのか、この証言は誰のどの部分を覆すことになるのか、といったことが追えなくなって来て、いつしか興味を失ってしまうことに。何度読むのを挫折しかけたことか・・・・・・。

特に、事件のあった翌年までは被告人は公判廷での発言を許されなかったとのことで、被告人としてのカリュー夫人自身の弁明が全く聴けない(その前の検屍裁判では発言しているけど)ことが、フラストレーションが溜まる一番の要因だったように思う。夫人自身の行動や思いなどは、弁護人が他の証人からの証言や証拠などから再構成した「解釈」が述べられるだけ。だから読者は、この物語の「ヒロイン」であるはずのカリュー夫人の人となりとが全く分からないままに進行する「ストーリー」を読まされるハメになる。それだけではない。結局、カリュー夫人の実際の言動とその意図とが一応なりとも整合的な姿を見せることすらないままに、この裁判は結審する。裁判の進行中にも夫人がある行動をとるのだが、その意図(なぜそうしたか)さえ当人の口からは聞くことが出来ない(少なくとも記録には残されていない)。隔靴掻痒も甚だしいったらありゃしない。

他にも明らかにされないままの事柄は数知れず。そこがノンフィクションのノンフィクションたる所以だ(?)と言われればそれまでなんだけど・・・・・・そうか、飽くまでも「ミステリー・ノンフィクション」であって「ノンフィクション・ミステリー」ではないところがミソだったんだなあと、遅ればせながら気づく。

著者自身、第III部の冒頭で「この裁判には不満足な点がいくつかある」と言ってその点について列挙しているのだが、それがイチイチごもっとも。もちろん、上で挙げた点もその一つに入っているのだが、皮肉なのは、裁判記録に対する著者のそうした不満はことごとく、本書に対する読者の不満でもあるということ。それを延々約370ページも読まされるんだからたまったものではない。

この第III部では、著者自身が実際にイングランドで行った取材の模様が描かれている。片目を失明しただけでなく、残る片方の視力も極端に落ち込んでしまったにもかかわらず、何年にも渡ってこの事件を追い続けた著者の執念には感服するものがある。取材で明らかになったいくつかの点については確かにいくらか興味が惹かれることはあっても、その点に対する著者のいささか独断と偏見とに満ちた感想や意見にはちょっと「引いて」しまう個所も。この事件に対する著者自身の思い入れと本書の読者の思い入れとの温度差が露呈して来る部分だろう。

著者は最終的に、「謎解きというより、むしろ事件の整理」をすることで最終的な判断は読者に任せている。その際、著者自身は一応、この事件に対する「結論」のようなものを出してはいるのだが、最後に、「事実は小説に似ているが小説ではない。説明されない個所があって当然だろう。この事件の面白さは、むしろ真相が永遠に判らないことにある」なんて言われても、そこまで読まされて来た読者の心情としてはやはり、穏やかならざるものがある。それならそれで、代わりに、登場人物たちの心理なり当時の社会状況なりが明らかにされたのかと言えば、残念ながらそれもまたさほど成功しているようには思えなかった。少なくとも、個人的に興味を惹かれるような類の「明らかにされ方」ではなかった。

つくづく、自分には「ノンフィクション」は合わないのだと痛感した。
ちなみに、Amazonでは"Philosophy"は"Nonfiction"に分類されているんだけど・・・・・・。