『ドレッサー』(注:長っ!) 

パルコ劇場の開場時間までにはまだちょっとある。109前にある某カフェの2階の窓側で本を読みながら時間を潰していると、109前で街頭インタビューの撮影が。なぜか渋谷に来る度に必ずと言って良いほどこの街頭インタビューってやつに出くわす。今回はどうやらランク王国のクルーらしい。以前にも見かけたことがある。実はその日、映画を見る前にも一つ遭遇していたんだけど、それは何のクルーかは分からず仕舞い。まあ、どうでも良いけど。

パルコ劇場に来るのは『なにわバタフライ』以来。もう何度目になるだろう。でも、三谷作品以外を観に来るのは始めて。三谷作品上演時なら、開場時間ともなればロビーは人で溢れ、エレベータ前も(恐らく)当日券やキャンセル分を当てにした人たちでごった返すものだけど、今回はそれに比べてかなり閑散としている印象で、ちょっと心配に。それでも開演時間間際には、客席は(恐らく)ほぼ満席状態になった模様。どうやらこの日は、撮影用のカメラが入っているらしい。

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この『ドレッサー』、『戦場のピアニスト』の脚本でも知られるロナルド・ハーウッドの作品を原作とする、いわゆる「バックステージもの」と呼ばれる類の作品の一つ。「ボケとプライド、傲慢と弱気…揺れ動くワンマン座長」を演じるのは平幹二郎、そして「自分こそが座長の唯一の理解者と信じ、仕え続けたドレッサー(付き人)」を演じるのは西村雅彦。今回この芝居を観ようと思ったのは、「バックステージもの」に興味があったし、西村雅彦の芝居をまだ生で見たことがなかったから。

――正直、この作品に関する劇評はあまり書きたくない。映画ならともかく(!?)、こと舞台の生観劇となると、役者さんたちの(出来不出来はともかく)熱演を直に見ているだけあって、あんまり無責任なことを書き立てるのがなんだか心情的にためらわれるから・・・・・・。出来れば察していただけたら有り難いんですが、それこそ無責任の誹りを免れないと思うので、一応はっきり白状しておくと、個人的にはしっくり来ませんでした。僕がそもそも原作のストーリーやテーマ自体に興味がないのか、ただ「翻訳もの」の芝居に不自然さを感じるだけなのか、残念なことに役者たちの演技が受け容れられないのか、演出の仕方に不満を感じているのか、それともその全部なのか、判断し難いのがもどかしくはあるんだけど。

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もしかすると、全編を通してセリフを大仰に捲し立てるタイプの芝居だったこと自体が、個人的に受け付けなかった要因なのかもしれない。いかにも舞台劇!といった感じで、好きな人は好きなんだけど、僕自身としてはむしろそれが苦手なのだから困る。これをやられると、どういうわけか、演じられている人物たちからいわば「人間味」のようなものが消し飛んでしまうように感じてしまうのだ。演じている側の「今私は力一杯お芝居をしてまーす!」って感じが全開で、観ている側も「今私はお芝居を観てるんだ!」という意識が常に呼び起こされてしまうため、芝居の中に全く没入することが出来ず仕舞いになる。結果、感情移入もヘッタクレもあったものではない

また、このタイプの芝居を観ると、演じられている人物一人一人が勝手に悦に入って自己完結しているだけのような感じがしてしまって仕方がない。確かに、演じている人物(=役者)同士の掛け合い(「はい、僕はこのセリフを言い終わったから、次はあなたのあのセリフよろしく」、「はい了解、まかせておいて!」みたいな感じ)はあっても、それは、演じられている人物同士の掛け合いでは全く無いだろう。上手く言えないけど、本来なら「芝居」は演じている人物(=役者)だけがするものであって、その役者たちに演じられている人物たち自身は当然、彼らにとってのリアルな活動や生活を営んでいるだけであるはずなのに(逆に言えば、役者は正にそういう人物を演じているはずなのに)、このタイプの芝居だと、その演じられている人物たち自身のリアリティからして、それこそ「芝居がかっている」ような印象を受けてしまうというか・・・・・・。たとえば、「実際の言動が妙に芝居がかっている人」をこのタイプの芝居の中で演じるとしたら、どうなるのだろうか。恐らく、そうでない人を演じているのとほとんど変わらないに違いない。わざわざ「不可識別者同一の原理」を持ち出すまでもないだろうが、たとえ演じている側の意識がどうであれ、観客の側に伝わらなくては意味がない。

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そうは言っても、平幹二郎は恐らく存分に演じ切ったのだと思った。でも、少なくとも個人的な印象では、今回の舞台におけるそれ以外の要素はことごとくが空回りしているように感じられてならなかった。お目当てだった西村雅彦の芝居は、恐らく贔屓目があるからだろうが、不自然な芝居を要求されていて納得行かないけどそれでも自分なりに精一杯演じている、といった印象。老優の妻役を演じた松田美由紀は、舞台初挑戦とのことだけど、役的には合っていたと思う。それだけ。舞台監督のマッジ役を演じた久世星佳は、宝塚出身だそうだけど、ごめんなさい、少なくとも今回の芝居でのこの人の演技には全く納得が行きませんでした。具体的な点については敢えて言及を避けますが、あるいは実際こういう演出が為されていて、彼女はその通りに演じ切ってたんでしょうか? だとしたら、最悪の演出だと言わざるを得ません。その他にも2、3人出ていましたが、ノーコメント。

また、これも恐らく演出に関係あることだと思うんだけど、部屋の内側から廊下側が透けて見えるような舞台装置になっていて、時々、扉の前である登場人物がじっと止まっている場面があった。これ、部屋の内側からいろいろ揉めている声が聞こえて来るために入るのを躊躇っている場面のはずなんだけど、その時のその登場人物ときたら、入ろうか入るまいかあたふたしている風でも、中の様子を伺う風でもなく、ただ真っ直ぐ突っ立っているだけなのはどういうことなんでしょうか? と思ったら一旦はけて、しばらくするとまた戻って来て、やっぱり同じ様に突っ立っている。後から思えば、「何だか今は入りづらいから、ちょっと時間をおいてまた来よう」と考えた上での行動だったのかなと想像はつくけど、観ている最中はそのあまりの不自然さに、一体何をしているんだろう、どういう意味があるんだろうと気になって仕方がありませんでした。

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そもそもこの芝居って内容的に面白いのだろうか、という根本的な疑問も拭い切れません。確かにやりたいこと(テーマ)はメチャクチャはっきりしていて分かり易くはあるんだけど・・・・・・。また、「バックステージもの」というと、文字通り芝居の舞台裏で繰り広げられる人間模様を描くタイプの作品のことで、正にこの作品はそれそのものなんだけど、あと一つ個人的に期待していたことがあって、それがちょっと裏切られた感が残ったのも、良い印象を生まなかった要因かも。期待してたのは、実際に幕が上がっている間に舞台裏で繰り広げられるてんてこ舞いな騒動を見せてくれるんだろうな、ということ。確かに、第一部の終わりから第二部の始まりにかけて、そうしたシーンが無いわけではありませんでした。でも正直その部分は、全体の流れの中でこれをやっとかないと不自然だからとりあえず入れときました、といった程度の印象しか残らず、非常に残念。単純に、そうした喜劇的な楽しみを求めるべき作品ではなかったということでしょうか。でもそうだとすると、結局、この作品の一番の「盛り上がり」の部分、ひいては一番の「見所」って一体どこだったのだろう? 何だかつかみ所がなくて困ってしまったというのが全体的な感想かな。

無責任なことは書きづらいとか言っておきながら結局めちゃくちゃ書きまくっているので、もうとっくに開き直ってます。これまでの僕自身の傾向として、好印象の作品の感想はなぜか比較的短くて済んじゃうんだけど、そうでない作品になるほどその感想はグダグダと無駄に長くなるようです。とってもイヤな性格だと思います。でも、単に「つまんなかった」、「たるかった」、「眠かった」、「とにかくウザかった」というような一言で斬る方がよっぽど質が悪いとも思うので、それを考えたらまだマシかな、と。

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最後に、恒例の(?)「今回見かけた有名人」は――たぶん「芸人」に分類されるんだとは思うんだけど、かつて一世を風靡した某バラエティ番組の某企画で一躍有名になった○○○。第一部と第二部との幕間、ロビーの椅子に座っていると、真っ正面に立っていた。実はかつて、某試験監督のバイトで、○○○が学生として試験を受けていた教室を一人で担当したことがあり*1、彼に遭遇するのはそれ以来二度目。いわゆる有名人のプライベートに二度遭遇したのは、彼が初めて――でも全く嬉しくないし、自慢にもならないのが悲しい。もっと僕のミーハー心を掻き立ててくれるような人に遭遇してみたいものです。

*1:これを書きたいがためだけに、敢えて伏せ字を使用しました。