『歌わせたい男たち』

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12人の優しい日本人』のチケットが取れず、楽しみにしていた年末行事(!?)が一つ無くなってガックリしていた時、植村恒一郎(charis)氏のブログで『歌わせたい男たち』のことを知る(http://d.hatena.ne.jp/charis/20051031)。面白そうだと思ったものの時すでに遅く、残念ながらすでにチケットは売り切れの模様・・・・・・と諦めていたら、それと前後して、確か『Sma-Station 5』に戸田恵子がゲスト出演していた時だったか、追加公演があることを知る。調べると、なんと有り難いことに、ちょうど個人的に休みの日の平日に1日だけ、亀戸でマチネ公演があるとのこと。

追加公演するくらいだから人気があるんだろうけど、チケット(しかも前の方)が簡単に取れたのは拍子抜け。当日は、平日の昼間であることに加え、そもそも永井愛ファンの年齢層自体が(恐らく)高いこともあって(?)、さすがに観客の年齢層はひたすら高かった。二兎社の公演(永井愛 作・演出)を観るのは実は初めて。でも、戸田恵子近藤芳正の共演が生で見られるというだけで、個人的には観る前からすでに半分近くは安心&満足してしまっていたかも。そのおかげで、観劇後の満足感は許容量を軽く越えてしまうことに。そう、はっきり言ってとても面白かった。観て大正解。

戸田恵子はさすがのコメディアンヌ(&歌手!)ぶりを発揮――というより当て書きされたんじゃないかと思うくらいハマっていた。近藤芳正は、TVドラマの教師役などでは権力(すり寄り)側の印象が強いしハマっているように見えるんだけど、舞台ではやっぱり「反権力」側の役が板に付いている感じがする――のは、『笑の大学』(の椿一役)の印象が個人的に強いから? 校長役の大谷亮介はあまり知らなかったんだけど、この役の怪演&快演ぶりは非常にインパクトがあった(出だしはビミョーに不安を掻き立てられたのは、個人的にまだ見慣れていなかったせい?)。出演者はあと二人いるんだけど、割愛(ゴメンナサイ)。

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卒業式当日の、しかも開式(10時)の2時間前、「君が代」斉唱&起立・不起立を巡って教師たちがなぜか保健室で繰り広げるドタバタ「喜劇」。都の教育委員会(以下、都教委)からの「通達」で、今年こそは絶対に、(校歌や「旅立ちの日に」はともかく!)国歌の生伴奏を成功させなきゃいけないし、「不起立」を出してはイケナイしで必死になる校長(大谷亮介)、その生伴奏を託されたものの、「ミス・タッチ(=ミスタッチ)」とあだ名されるほどピアノが苦手なシャンソン歌手くずれの新任音楽講師(戸田恵子)、何が何でも「不起立」を貫こうとするがために(「ゴチゴチ」ならぬ)「ガチガチの左翼」と囁かれる歴史教師(近藤芳正)・・・・・・。音楽講師は、同郷(名古屋)のよしみもあって歴史教師と親しくしていたものの、彼の「立場」を直前になって知る。彼との仲のためには伴奏を止めなきゃいけないのだろうが、でもそうすると、ようやくありつけた職を再び失うハメになりそうだからそうもいかない。結局孤立する歴史教師、彼を何とか説得しようとする校長。しかし、校門前で元教師が撒いたビラをキッカケに事態は急転直下。(ある意味哀れな)校長の運命は、そして音楽講師と歴史教師、それぞれの選択は・・・・・・?

こう紹介しただけだと、政治色の濃い結構シリアスな作品であるかのような印象を持たれるかもしれないけど、決してそんなことはない。単に右だ左だといったレベルの問題に留まらない、もっと広い文脈に関わる問題でもあるという意味でもそうなんだけど、それより何より、飽くまでもドタバタ「喜劇」として純粋に楽しめる、エンターテインメント色豊かな作品でもある。それでもなお、植村氏に倣って、敢えて「喜劇」と括弧付きに。いや、確かに純然たる(括弧無しの)喜劇と言えばそうなんだけど、でもテーマはやはり深刻なものであることに変わりはない。そして翻って、深刻なんだけど、正にその深刻性こそが、それこそ純然たる喜劇性を発現させるいわば装置として機能している。その深刻性の元となっている、しょうもないある種の権力構造を「シチュエーション」とした喜劇だという意味では、だからこれは歴とした「シチュエーション・コメディ」の部類に属するのかも知れない。ただ、この作品の喜劇性は結局のところ、終盤、「ホントは泣きたいのに!」と心底叫びながらも大笑いせざるを得ない状況に追い込まれる歴史教師に象徴されると言って良いと思う。植村氏の真意はともかく、少なくとも僕自身が敢えて「喜劇」と括弧付きで呼ぶことにした所以である。

ラスト、校長は演説で、内心の自由について語る。「内心の自由、大いに結構」。でも、それを外に出したらそれはもう内心ではなくて「外心」であり、外心の自由となったらこれは、さすがにどこまでも認められるというわけにはいかない。でも大丈夫、起立して国歌を斉唱している時でさえ、「イヤだな」と内心で思うのは自由なんだから――。とはいえこれは、いわば都教委の見解の受け売りに過ぎず、むしろ、恐らく当の校長自身が置かれている状況そのものをも示唆している(つまり、暗に心情を表出している)ように思えて、逆に哀れをさそう。

心の内/外をキッチリ区別するというこの発想は、用いられ方次第ではここまで空恐ろしい理屈の片棒を担ぎ得るのかと痛感。個人的には、様々なトピックに関する議論が単純に「面白い」という理由だけでこれまで分析哲学に関わって来て、だから「哲学は役に立たない」と言われれば「御説ごもっとも」と言うしかなかったんだけど*1、でもそれらの議論は単なる「言葉遊び」に留まるわけではなく、実は様々な現実問題に対する適用可能性を秘めていることを改めて思い知る*2。遅いと言われれば――あまりに遅過ぎるくらいなんだけど。

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最後に細かい点をいくつか。

前の方だから良く見えたんだけど、小道具の壁時計が開演前(針は「7時20分」)から実際に動いていて、それから30分後の「7時50分」頃に開演、その後すぐ、ほぼ「8時」になった時にちょうど、「まだ2時間あります」というセリフがある。そして、卒業式開始時間である「10時」くらいに終演(実は正直なところ、芝居自体に集中してしまって最後に時計を見るのを忘れていたんですが・・・・・・)。だから、そう、正に「ドタバタは、リアルタイムで起こっている」のだった。卒業式本番直前の教師たちの様子を描いているという点では、ある意味「バックステージもの」と言えなくもない。ということはつまり、この作品て実は、「(戸田恵子近藤芳正による)バックステージもののシチュエーションコメディ」だったんですよ紳士淑女の皆さん! これを見逃した三谷ファンは地団駄踏んで口惜しがるが良い! (そう、僕が『12人』を見逃すことになって口惜しがったように!) この作品と『12人』の両方を観た(観る予定の)人は――羨ましいぞこの野郎!

小道具以前に、まずセット自体が凝っていた。極端な遠近法が物理的に用いられた(そしてその結果、露骨な歪さを――絶妙なバランスで!――見せていた)保健室内と屋上のセット。これは、一つにはもちろん奥行き感を出すためだろうが、芝居の進行上、実際にそこまで奥行き感を強調する必要があったとは思えない(見上げる感じの屋上のセットに迫力と説得力とを持たせるための効果ならあったと思うけど)。だから、これはむしろ、それこそ学校教育そのものの「歪み」を物理的な仕方で露骨に表現する意図があるようにも見えた。

ヨン様――おば様方には恐らく未だに効果てき面なのかもしれないけど、さすがに女子高生相手にそんなに効くかはちょっと疑問。と言ってもまあ実際の観劇中は、観客の一丸となった(?)いわゆる「ゲラ」状態の雰囲気に飲まれて、全く気になることもなく普通に大笑いしちゃったんだけど。

タイトルの『歌わせたい男たち』、多くの人たちにはどうも一方の側だけのことだとしか受け取られていないような印象を受ける。でもそれは、(以前に書いた)『猫の恩返し』とちょっと似た状況。ほぉら、よく考えてみて下さい、校長+1名の「男(たち)」以外にもう1人、「歌わせたい男」が居ませんでしたか?

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まだまだ書きたいことはあるんだけど、このままだと埒が開かなくなるので止める(実際、「最後に」と言った後にまたこの段落が続いてるし・・・・・・)。それにしても、普段はこの問題に対してどこか冷めた目で傍観しているようなところがあったのに(ここには書かなかったけど)いろいろ考えるようになったのは、この作品が正に「喜劇」(あるいは純粋に喜劇)だったからかもしれない。これが、それこそ政治色ばかりが濃厚な作品だったら(そうと感づいていたらそもそも観ようとしなかっただろうけど)必要以上に「青臭さ」を感じてしまって、さらに引くことになったのは間違いない。喜劇の持つ力を再確認。恐らくこの作品は何らかの賞を獲ることだろう。その一つに、都の出している賞(こんな賞があるのかどうかは知らないけど、たとえば「東京都芸術文化奨励賞」みたいなヤツ)があったなら、これ以上の(「喜劇」と言うより)喜劇はないだろう。密かに楽しみだったりする。

ホントの「最後に」、この作品は必ずしも、近藤芳正演じる歴史教師の言動(言説&やり方)の方だけを肯定し、その立場を完全に支持するような描かれ方をしてはいない、という点は強調しておくべきかもしれない。ネット上ではその辺りを誤解した感想がちらほら見受けられたので――。この作品の焦点は飽くまでも、こうした事態を招くことになる状況(シチュエーション)そのものに当てられている。

*1:「どうして役に立たなきゃならないのか?」と思わないでもないけど、そもそもそれ以前に、「そういう疑問の前提に置かれている『役に立つ』の意味範囲があまりにも偏狭に過ぎるのでは?」と思わないでもない。

*2:実は先日のI教授のお話からも――こちらは「意図」に関して――同じ様な思いを持つようになったのだった