日曜日

某研究会に参加。微妙に(?)遅刻。発表が3本。以下、それぞれの発表を聞いて考えたことを少しづつ。

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道徳的事実が心-独立的だという時の「心-独立的」には、二通りの意味が考えられそうだ。

道徳的事実というのは、たとえば一番分かり易い典型的な例で言うなら、「人を殺すのは(道徳的に)悪い」のようなものだろう。このように、道徳的事実というのは一般に、ある一定の心的能力を持った生き物の振舞い(しかも多くの場合、他のこれまた一定の心的能力を持った生き物に対して直接的/間接的に何らかの影響を与えることになるような振舞い)と密接に、それどころか恐らく本質的に、関係しているように思える(一定の心的能力保持者とは全く無関係の道徳的事実なんて果たしてあるだろうか?)。だとすると、もし仮に、本当の意味で、とりわけ「形而上学実在論」的な意味で道徳的事実が「心-独立的」だと言おうとするなら、たとえば次のような言明を受け容れる必要があるような気がする。

1) ある世界にいかなる心的能力保持者も存在しなかったとしても、「一定の心的能力保持者が他のそうした存在者を傷つけることは(道徳的に)悪だ」はその世界において真である。

道徳的事実の実在論を採る人も、いくらなんでもここまで強いバージョンは採らないのではないか。恐らく大抵の道徳実在論者は、道徳的事実の構成要件に一定の心的能力保持者の(当の世界における)存在が先に述べた意味で含まれる、ということは認め(てい)るように思える。そしてその上で、そうした存在者が関係する特定の振舞いや出来事について、一定の心的能力保持者(たち)が「・・・は善い/悪い」という道徳的判断を下すか下さないかということとは独立に、当の振舞いや出来事は善いもの/悪いものとして成立している、という意味で「心-独立的」――つまり「判断-独立的」だと言いたいのだろう。

ただその時、単に「判断-独立的」だと言うことだけでは、必ずしも極端な(形而上学的)実在論にコミットすることにはならない、ということに注意すべきである。「判断-独立的」にもさらに、種類というかレベルの違いがある。

たとえば、よっぽど強い観念論でも採らない限り、「地球は丸い」と僕が判断することとは独立に、地球は丸いという事実が成立している、ということを否定する人はいないだろう。さらに言えば、一定の心的能力保持者がこれまでに誰も一度も「地球は丸い」と判断したことがないとしても、地球は丸いという事実は成立している、ということすら多く人は認めるかもしれない。でもこれを認めた場合でさえ、いわゆる形而上学実在論にコミットすることにはなりはしない。というのも、そうした判断がこれまでに誰によっても一度も為されなかったのは、単にたまたまのことに過ぎず、誰かがそう判断するための手掛かりや当の判断を正当化する方法は現にすでに手に入っていたか、あるいは少なくとも手に入れることが可能だった、ということが後で判明する、ということだって考えられるからだ。だとすると、恐らく次のような形式を採るものが最も極端な実在論だと言えるかもしれない。

2) pという「判断ないし言明の決定手続き(主張可能性or正当化条件)と原理的に独立に」、pという事実は成立/不成立している*1

先に挙げた1も、この2によって説明することが可能であることから、ある程度納得していただけるものと思う。

まあいずれにせよ、要するにここでは、「心-独立的」と言っただけでは存在論形而上学)的な意味にも認識論的な意味にも受け取られ得る余地があるから注意が必要だな、ということを確認したかっただけ。ただし、ほとんどの場合は認識論的な意味に取られ、そしてそれで事足りているように思う(上で見たように、存在論に関わるはずの様々な実在論に関する特徴づけはことごとく、実はいわば認識論的な条件に基づいていることに気づく)。でも、殊「道徳的事実」なるもの(あるいは、人間の行為が関係するような事実一般)に関しては、注意深く区別する必要があるだろう。それは、「心」は(他のどの事物とも違って)「認識する存在者」であるのと同時に、(他の事物と同様)「認識される存在者」でもある、という事実と密接に関係していると言えるかもしれない。

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ヒト胚研究に関する倫理的諸問題については、ヒト胚に関する専門知識を全く持ち合わせていないため、ホントに素朴な感想だけに留める。このテーマでの発表と質疑応答にもかかわらずこの話題が一切出なかったのはどうしてだろう、と逆に興味深かったものが二つあるので、それについてちょこっと。

一つは、例のES細胞関係の話題。捏造が発覚したものについて今さら触れても建設的でないということなのかもしれないけど、でもたとえば、発覚する以前はどういう論点でどのような議論が進んで(or停滞して)いたのか、そしてそれはなぜなのか、などという話しからも、何らかの教訓を得られる可能性はあるように思う。それにしても、「捏造だったね」、「まさか捏造とは」、「捏造だと分かってショックだった人(研究者だけじゃなくて難病患者など)もいただろうね」、といった話題すら出ないのは――まさか、この(どの?)世界では「無かったこと」になっているってこと? 

もう一つは、他の動物の生命や権利に関する話題。「人間の尊厳」に代わって「生命の神聖」に訴えるというなら、他の動物の生命に関しても同じ論点が当てはまるはずだけど、なぜか触れられた覚えがないのが意外。「人間の尊厳」に訴えたがる人の動機の一つには、「生命の神聖」に訴えてしまうと大好きなハンバーガーやステーキ(でも何でも良いけど)が食べられなくなっちゃって困るから、というものだって多かれ少なかれあるのでは?とか。もし仮に、さすがにヒト胚を他の動物と同じ様な扱いにするわけにはいかないと考えて、何らの違いを定めた原則を掲げようとするなら、「生命の神聖」というよりやっぱり「人間の尊厳」寄りにならざるを得ないような気がするし・・・・・・。

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『ウンコな議論』とは関係無かったけど、それはともかく。これに関しては一つだけ。

volitional necessityの話しとessence as the personの話しは独立だと考えることも可能では? つまり、volitional necessityの話しはそれなりに尤もだとして受け容れたとしても、そのことからは別に、(いかなる意味においてであれ)essence as the personという考え方も受け容れなければならないということは出てこないのではないか。また逆に、仮にessence as the personという考え方を何らかの仕方で採ろうとする場合でも、それ(essence)をvolitional nessecityに求めるべき必然性は恐らくなくて、いくらでも別の要素に求めることは可能に思える。

と、この論点にこだわるのは、個人的に(不勉強ながら初めて聞いた)volitional necessityという考え方に共感するから。以前から、必然性というより不可能性には、論理的不可能性と物理的不可能性の他に、心的な不可能性(たとえば、「誰々に合わせる顔がない」などのような、いわゆるメンタル・ブロックの事例)というのもあるような気がするけど、それって一体何に存しているのかなあ、などと考えていた。

だから、もし、このessence as the personが人格同一性の問題に関わるほど深い特徴のことだとするなら、何とかvolitional necessityの話しと切り離す余地を見出せたらなあ、と漠然と。ただ、ここで言われているessence as the personとは、いわゆる「その人らしさ」ってことに過ぎないような雰囲気を薄々感じなくもない。だとしたら、まあ、そんなに躍起になって切り離そうとすることもないよなあ、と。

*1:いつの間にやらダメット的(?)になってしまったので、ついでながら言っておくと、彼に帰される「反-実在論」という立場は、(私見によれば)飽くまでも「反-形而上学実在論」に他ならないのであって、あらゆる意味での実在論を退ける立場だというわけでは決してない。逆に言えば、ダメットもある(しかもそんなに弱くもない)意味での実在論者であり得る。