『ダ・ヴィンチ・コード』をめぐる信念と知識

「『ダ・ヴィンチ・コード』の文庫版が出たら買おう」と思っていて、かつ、「『ダ・ヴィンチ・コード』の文庫版が出た」という信念を形成するに至ったので、「『ダ・ヴィンチ・コード(上) (角川文庫)』の文庫版を買う」という行為を結論として遂行しました。――見事なまでにシンプルで、まるで実践推論の見本のようです。

それはそうと、レジに持って行くと例によって「カバー、おつけしますか?」と訊かれたのでお願いすると、あろうことか、『ダ・ヴィンチ・コード』文庫版の販促キャンペーン用と思しきカバーをつけられてしまう。表紙にあたる部分にデカデカと、モナリザと「ダ・ヴィンチ・コード」というタイトルが印刷されているのだ。これにはちょっと参ってしまった。というのも、そもそも僕がカバーを付けてもらうのは、別に、本が汚れてしまうからなんていうセコイ理由からじゃなくて、電車内や喫茶店などで本を広げた時に何を読んでいるのかを知られたくないからという・・・・・・結局はやっぱり(輪をかけて?)セコイかもしれない理由からなのだ。それなのにこんなカバーをつけられちゃあ全く意味がないではないか。

いや、このカバーを付けていたからと言ってその本が本当に『ダ・ヴィンチ・コード』であるという証拠にはならない、全然別の本にこのカバーを付けることなんていくらでもあり得るんだから――というのは確かにその通り。でも、そんなことはどうでも良いのだ。誰かに「こいつ、『ダ・ヴィンチ・コード』読んでるな」という信念を形成されたとしても、それは真であるかもしれないけど単にたまたまそうであるに過ぎないということだってあり得るんだから、その人はそうした内容の知識を持っているとは言えない――なんて言われた(そもそも誰に?)ところで、何の慰めにもなりはしない。問題なのは、当の信念がたまたま真であるに過ぎないのかそれとも「知識」の身分を獲得したものなのか、あるいは端的に偽なのか、なんていうことじゃなくて(当たり前だ)、そもそも「こいつ、『ダ・ヴィンチ・コード』読んでるな」という信念を抱かれてしまうというその事自体なのだから・・・・・・。

次の日、紀伊国屋書店の某支店で、これまた(岩波で絶版になって久しかった)文庫版がようやく出たデカルトの『省察 (ちくま学芸文庫)』(ちくま学芸文庫)を買ったところ――紀伊国屋、お前もか!ってな感じで例のカバーをつけられてしまった始末。これじゃあ、偽な信念を抱かせる気マンマンじゃないですか、明らかに。それにしても、さすがにこのギャップは激し過ぎるだろう、いくら何でも。紀伊国屋、お主も・・・・・・言わずもがな。