『決闘!高田馬場』

何ヶ月も前に先行予約したまますっかり忘れてたんだけど、クリスマスを過ぎた途端に届いたことで思い出す。お陰で良いクリスマス・プレゼントになりました――って自分で買ったんだけど。

いわずと知れた三谷幸喜作・演出作品なんだけど、「PARCO歌舞伎」と銘打った、(もちろん)三谷氏初の歌舞伎作品。あのパルコ劇場でどうやって歌舞伎をやるのか、いやそれ以前に三谷氏の歌舞伎って一体どうなるのか、あるいはまた、市川染五郎*1はともかく他のベテラン歌舞伎役者の方々が三谷喜劇に上手くハマるのか・・・・・・そういった未知数な要素が多々あるだけに、不安と期待とがないまぜになっていた。でも実際には、DVDを観終わった後、公演のチケットが取れなかったのは痛かった、これは絶対、生観劇しておくべきだったと、地団駄を踏むことに。

赤穂四十七士の一人、堀部安兵衛として吉良邸に討ち入るちょっと前、掘部ホリに婿入りする前の、中村安兵衛の物語。剣の達人であったはずの安兵衛が、あることをキッカケに酒浸りになり、働きもせず、もっぱら喧嘩の助太刀・仲裁をして小銭を稼ぐという落ちぶれた生活を送っていた。しかしその「喧嘩」というのは実は、同じ長屋の住人で、安兵衛を「義兄(あに)」と慕う大工、又八による「やらせ芝居」で、しかも安兵衛自身もそのことを知っているにもかかわらず、又八から受け取る金で昼間っから酒を喰らうという質(たち)の悪さ。以前、それぞれ安兵衛に世話になり恩を感じていた長屋の住人たちは、そんな安兵衛をそれでも支え続けていた。そんな折り、おじが高田馬場で決闘をすることになったことを知った安兵衛は、助太刀に向かおうとするが――。

歴史上のどんな「ヒーロー」であれ、その活躍はことごとく、庶民の日々の暮らしや時にはその犠牲の上にこそ初めて成り立っているんであって、それ抜きの「ヒーロー」だの「伝説」だのなんて全くのナンセンス!という、三谷氏のいわば「アンチ・ヒーロー史観」は、やはりこの作品にも遺憾なく発揮されている(というより、そもそもこの題材を選んだ理由からしてそうだったんだとは思うけど)。「歌舞伎」であるということをさほど意識する必要もなく、純粋に「時代劇」だと思って観ることも出来るだろうし、あるいはむしろ、そもそも歌舞伎っていうのは元来こうした庶民的な芝居なんであって、実に気楽に観ることが出来るものなんだと(形式的で堅苦しいものだと思っていた人は)認識を改めることも出来る。また、三谷氏が拠り所にしていたらしい、「歌舞伎役者が演じれば何でも歌舞伎」という(亀治郎丈の?)言葉も、実際に作品を観た後では実にしっくり来る。ホント、役者陣の芸達者ぶりには恐れ入るしかない。観る前に不安を感じていた自分の不明を恥じるばかりです・・・・・・。特典映像にあったリハーサル風景を見る限りでは、皆さん、そこいらに居る「単なるおっさん」にしか見えないので、そのギャップがまた凄まじい。仮に現代劇の役者たちがこの作品をやったとしたら、それこそ、「ちょっとした余興で、時代劇に歌舞伎的な味付けをしてみました」程度にしかならないだろうと思う。

市川亀治郎丈は、安兵衛の幼なじみ小野寺右京として最初に出て来た時には、白塗りとその貫禄とで、もっとベテランの方なのかと思ったら、実は染五郎丈とほとんど同じ(あるいは年下?)だというからちょっとビックリ。亀治郎丈はまた、堀部ホリと(安兵衛のおじの決闘相手である)村上庄左衛門の二役を含め、なんと計三役を演じている。中でも特に、堀部ホリのエキセントリックさは最高。女形の真骨頂――とまでは行かないかもしれないけど、それでもやっぱり、これが成立するのは歌舞伎的要素を取り入れた芝居ならではかも。最初は、右京と同じ役者が演じていることに全く気が付かなかった。女形と言えば、市村萬次郎丈演じるおウメ(ばあ)さんもホントに良い味を出していた。個人的には(コメンタリーでも触れられてたけど)、故・青島幸男演じる「いじわるばあさん」以来の、男性演じるおばあさん。染五郎勘太郎のコンビは、カーリングイナバウアーから「キレてないっすよ」(by 長州小力)まで、鮮度が命の時事ネタを、しかも時代劇の中で好き放題にやりっ放しで、まあ、ちょっとした余興としては楽しめるかな。(この作品に限らず、三谷氏は自分の舞台作品の中に必ずと言って良いほど時事ネタを入れて来るんだけど・・・・・・どうなんでしょう? 一ファンとしては、もっと純粋に、シチュエーションの可笑しさによる「笑い」だけに徹して欲しい気がしないでもないんだけど・・・・・・。)

また舞台装置も、三谷作品としては初めてだったり珍しかったりするものが目白押し。場面転換に多用され、狭い舞台ならではの効果を見せた「廻り舞台」(「盆」と言うらしいけど)や、たった一度だけ、後半への勢いづけ(?)に使われた「せり上がり」、そしてその後半、次から次へと左右に飛びまくるブレヒト幕」(野田作品の『贋作・罪と罰』で使われた幕を急遽借りたらしい)――。三谷氏の他の多くの舞台作品とは違って、この作品は場面転換が多いのが一つの特徴。しかも、場面(シーン)転換どころか、廻り舞台やブレヒト幕の使用による、ある意味での「カット割り」すら見られた(映画作品ですらほとんどやらないのに)。

最後に、三谷作品のDVD版ではすっかりお馴染みの、そして僕の大好物の(!?)コメンタリーは、三谷氏と市川染五郎丈の一対一。歌舞伎関係のセリフや演出に関しては、やはり三谷氏、もっぱら専門家におまかせだったようで、全体としては自身の作品であるにもかかわらず、結構他人事のようにそれらのシーンを観て、そしてその上で染五郎丈を質問ぜめにしていたのが印象的だった。また、二人の会話の中でも個人的に特に興味深かったものがあって、それを一つの話しにまとめると・・・・・・「歌舞伎は、観客が芝居に没入するのではなく、むしろ、たとえば一人二役の早変わりを敢えて見せ場にしたり、『○○屋!』のように役者の屋号を叫ぶかけ声が飛んだりなど、役者を対象化する傾向にある。それなのになぜか芝居が成立している、というところが面白い」。そして今回の作品にも、そういった意味での歌舞伎的要素はたっぷり入っていたと言えるでしょう。ちなみに、調べたところによると、「ブレヒト幕」の発案者(で良いのかな?)としても知られるドイツの劇作家ブレヒトは、「観客が俳優や物語に感情移入するのを避け、劇の対象化・観察を通して批判的に観ることを要求する手法」を編み出したらしいですね。だとすると、今回の作品のように、歌舞伎(的)作品にブレヒト幕が使われるっていうのも実はごく自然なことというか、どこか象徴的な感じがしないでもありません(本家の歌舞伎ではもちろん、ブレヒト幕なんていう洋モノは使われないんでしょうけど)――まあもちろん、「別に関係無いんじゃないの?」と言われるかもしれませんが。

*1:どうやら歌舞伎界では「氏」の代わりに「丈」が使われるらしいので、その慣習に倣ってみます。