子供は分かってくれない・・・

実は僕は、この本が妙に嫌いである。『ライ麦畑でつかまえて』と十把(二把?)一絡げにして、嫌いである。

「ああ、『反吐が出そう』ってこういうことなのか」と初めて実感させてくれたことだけは感謝している。

だいたいが、大人が書いた「子供目線からの大人(社会)批判」ほど胡散臭いものはない。何より、その「子供目線」が全然子供のものじゃない。「子供ってのはこういう純粋無垢な心で物事を見ているんだ」という、書き手の理想かつ妄想が充満している。

そしてそれを読んだ、「子供の心を持っ」ていて「もの分かりの良い」大人たちが、子供を「理解」した気になる。

「子供サイコー!」

そんな大人たちが一定のコミュニティーを形成していたとなったらさあ大変。神様子供様「子供の心を持った」大人様。

――こんな事情が、子供を妙な具合に神聖視する風潮に繋がっているような気がするのはまあ別に気のせいでも良いです。何の実証が手許にあるわけでもなし。

ただ一つ言えることは、実際の子供にとってはこの二冊(あるいはこういう類のお話)が好きだというような大人は結構有害なんちゃうかってこと*1

それと関連するかどうか分からないけど、

「子供はみんな哲学者」

という言い回しをたまに聞いたりする。この言い方は、嫌いというよりもむしろ、端的に間違っている、と思う。

だって、子供にはそもそも哲学なんて出来ないから。

いや、別に、「だって子供は哲学用語とか知らないじゃん」なんて言いたいわけではないのでまあちょっと聞いて。

確かに、時々子供は、大人たちには思いもよらないような質問をしたりする。するとそれを聞いた大人たちは、「おお、なんて哲学的な問いなんだ! 子供のくせにスゴイじゃん! っていうか子供スゲー!」と妙に感心する。だからそうした傾向を捉えて、子供を「哲学者」になぞらえたくなるのは分からないでもない。

でも、その時子供は別に、「哲学してる」わけではない。むしろ、子供の問いを勝手に「哲学的」なものにしているのは、それを聞いた大人たち自身に他ならないのだ。

もし仮に、一定の大人たちが、子供の発するそうした問いを自らの問いとして引き受けた上で、それについて思考し出したなら、その時に初めて「哲学」もまた始まる。

そうしたプロセスを欠いている限り、子供がどんな問いを発しようと、それは一向に「哲学的」なものなんかじゃない。

ただ分からないから質問している――それだけ。

それに対して哲学というのは(もちろんこれは個人的な「哲学観」に過ぎないんだけど)、すでに一旦、日常世界にドップリ浸かって生活している大人が、それでも敢えてその日常的・常識的な世界観を対象化し、ある時にはそれを覆さざるを得ないかもしれない可能性を秘めた問いを立てた上で自ら受け止め、そしてそれこそ身を引き剥がされる思いでその問いに立ち向かうこと。

言い換えれば、一見分かり切っているはずのことを、それでも敢えて疑問に付してみること。

・・・っとまあ少々大げさに言えばこうなるか。

その点子供は、まだこの日常的・常識的な世界に浸かり切れてはいない(というよりむしろ、その状態を指して「子供」と言う)。つまり子供は、その意味でまだ「哲学する」ための資格を獲得していないというわけ。強いて言うなら子供の役割は、不意を付いた質問をしてそれがたまたまある種の大人の耳に留まった際に、いわば結果的に、その人に対して「哲学的な問い」のアイディアを与えることがあり得る、ということだけ。

まあ要するに、「哲学することが出来るようになったら大人」――なのである。

*1:どうせ心密かにツッコまれるだろうからここで密かに言っておくと、そりゃまあ、真性ロリコンも同じくらい有害でしょうよ。そして実際、日本では、なぜかロリコン文明が隆盛を極めちゃってるわけで。