愚にもつかない秋茄子の話

これまたとっくに時期は過ぎたけど、「秋茄子は嫁に食わすな」ということわざ(?)がある。

そのまま理解するなら、「秋茄子はあまりにも美味しいので、嫁ごときに食べさせるのは勿体ない」という、特に姑の立場からの物言いに聞こえなくもない。恐らく、こう理解している人が多いのではないか。

でもそれに対して、全く逆の解釈をする向きもある。「秋茄子は水分が多くてお腹を冷やし易いので、大事な嫁に食べさせてはいけない」というもの。

このことわざがいつ頃成立したのかは知らないが、ある程度古いものであるなら、やはり元々は前者の意味だったのではないかという気もする。それが、「男尊女卑」の時代から「男女平等」の時代へと(少なくともスローガン的・表面的には)以降するにつれて、そのままの意味で流通させるのは都合が悪いという何かしらの配慮が働いたためか、後者の解釈も流通するようになって行った――のかも知れない。


恐らくこれと似たような事情があるのではないかと想像されるのが、「愚妻」・「愚息」といった言い方の解釈について。

これらもまた、書いてある通りに理解しようとするなら、「愚かな妻」・「愚かな息子」という意味になるだろう。するとそこで、自分のことを夫に「愚妻」と紹介された妻がヘソを曲げることになる。あるいはもっと一般に、これもまた「男尊女卑」意識の名残だとして、こうした表現の撤廃を訴える人も出て来る。

でもやはり、これにもまた別の解釈がある。そもそも「愚」というのは自分自身を卑下・謙遜する一人称表現であるため、「愚妻」・「愚息」というのは実は、「愚かな私/私め/私ごときの、妻・息子」という意味なのだ、というわけ。

いずれにしても自分の妻・息子を謙遜して呼ぶ仕方だと解されていることに変わりはなく、その謙遜の仕方を、妻・息子を直接卑下するものと取るか、そもそも自分自身を卑下することでその妻・息子をいわば間接的に卑下するものと取るか、の違い。ただ、もし後者だとしたら、夫に「愚妻」と紹介された妻が後で夫に抗議する必要はないだろうし、何より「私の愚妻・愚息」などという言い方は不適切(一人称表現の重複)だということになるだろう。


「秋茄子」に関しては互いに「こういう解釈もある」的な共存が図られているようだが、殊この「愚・・・」に関しては、どうも互いに排他的であるような印象を受ける。つまり、一方の解釈を採る人は他方の解釈を「間違っている!」と指摘している場合が多い。

どちらの例に関しても言えることは、性(ジェンダー)に関わっているということ。ただ、「愚・・・」の場合は、専ら「愚妻」が問題にされているように思われるが、「愚息」もあるわけで・・・。そう考えると、「愚夫」・「愚娘」という言い方を聞かないのはなぜだろう?