『アドルフの画集』

新宿南口にあるタカシマヤ内の、「テアトル タイムズスクエア」で観賞。

幸いなことに、この映画館も毎週水曜日がサービスデーらしい。ということで、もちろん(!?)サービスデーの水曜日を狙い撃ち(でも別に、「この世は私のためにある」だなんて思ってませんよ*1)。

この映画館は初めてだったけど、いやあ、ちょっと凄いかも。何が凄いって、一番後ろの席に座ってもスクリーンとの距離をほとんど感じないのだ。「一番後ろ」というより「一番上」と言った方が正確なんじゃないだろうか。つまり、前の座席と後ろの座席との角度がひたすら急なのだ。武道館の二階席とどっちが急だろう?っていうくらい。

そう、つまり今までの映画館チックな座席配置ではなく、むしろ芝居の舞台の観客席のような配置なのだ。たとえばパルコ劇場なんかの(前の方を除いた)観客席をもっと(!)急にした感じ・・・かな?

それはともかく映画の内容は――画家を目指していたある1人の青年はいかにして「あの、アドルフ・ヒトラーとなるに至ったかというお話。

ヒトラーについての(ごく一般的な)背景的知識を観客に要求することによってこそ初めて映画として成立しているお話。

つまり、仮にヒトラーを知らない人が観たら「ああ、そうですか――で?」っていうお話。

でもまあ、最低でも映画館に出向けるくらいの人にそんな人がいるとは思えないので、その辺は全然問題なし。

ただ一つ――なんとヒトラーを始めとする登場人物たちがみんな当たり前のように英語を喋るのは興ざめ。最初に聞いた時は思わずひっくり返りそうになった(あの場でひっくり返れるものならひっくり返ってみろ、と自分でツッコんでおく)。恐らくドイツ国内ではこういう映画は作れないだろうから「ドイツ映画」じゃないのは仕方ないにしても、せめて登場人物たちにはドイツ語のセリフを喋らせるべきだったのでは?

これがたとえば、舞台の芝居だったりした場合には構わないのだ。英語圏の人がヒトラーの役をやって英語で演説しようが、シェークスピアを原文で読めない日本語圏の人がハムレットの役をやって日本語を喋ろうが(この点についてはクレームを付けたがる人がいるかも知れないけど)、恐らく、そこには観る側と演じる側との間に一種の「共犯」関係が成り立つがために(?)、不自然な違和感が生じることはほとんどない。他方で映画となれば話しは別――その理由をここでは上手く分析出来ないのがもどかしい。舞台観賞と映画観賞との違いについて、何か面白い分析ってありませんかね?

ともかく。

ヒトラーが英語で演説してもなあ・・・と言いたいところだったんだけど、正直、これが意外にも悪くなかった。演説の「調子」がヒトラー本人のそれに結構似ている(飽くまでも個人的な印象では)こともあって、それほどの違和感はなかったのだ。神経質でヒステリックで陰気な表情の演技は印象的。


ちなみに、タイトルにある「つながり」を持った映画を近日中に観賞予定。今回の映画観賞は、実はその「企画」の第一弾だったというわけ――第二弾までしかないけど。

*1:ちょっと分かりづらいかな、これ・・・。