『テイキング・ライブス』

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アンジェリーナ・ジョリー主演のサイコ・サスペンス。

体格の似た他人を殺してはその人に成りすまし、その人生に飽きたら次の獲物を探す――こうした「人生の乗っ取り(=テイキング・ライブス)」を繰り返す連続殺人鬼マーティン。果たして、彼はいま、誰に成りすましているのか!?

こうした「あらすじ」を聞く(読む)限りはちょっと面白そうだとは思ったんだけど、正直、あまりこの設定が上手く生きているとは思えなかった。極論すれば、殺人犯が「人生の乗っ取り」を続けているという設定を取り入れず、単純に「真犯人は誰か?」、あるいは「この人物は真犯人なのか否か?」という典型的な謎で引っ張って行ったとしても、このラストに続く実質的なストーリーの展開上に何の問題も生じないように思える、ということ。最初は、殺人犯の「人格」そのもの(!)が転移するという奇想天外な設定に度肝を抜かれた西澤保彦『人格転移の殺人』(講談社文庫)を連想してかなり期待したんだけど・・・。

主眼が「真犯人さがし」にあるわけじゃないのは明らかで、制作者側に言わせればむしろ「動機」こそがポイントらしいんだけど、この動機で――本気(ほんき)ですか? こんなところにポイントを置くなんて見当違いも甚だしく、それこそ折角タイトルにもしている「人生の乗っ取り」それ自体の恐怖こそを力一杯見せて欲しかった気がする。あえて見所を挙げるとすれば、冒頭のシーンとアンジェリーナ・ジョリー・・・くらいのものか。確かに、ラストにはある種の「ドンデン返し」が見せ場として用意されてはいるけど、いかんせんその「返し幅」がちょっと短か過ぎたのが残念だった。(ネタバレ注*1

最後に、『火の粉』を読んだ後にこの作品を観たなんて、ちょっと出来過ぎた(不幸な?)偶然だな――と言ったらネタバレになるでしょうか?

*1:ただ、個人的にちょっと不確かなのは、もしかしてこの「作戦」て最初から計画されていたことなんだろうか、ということ。僕自身は、最後にああなってから飽くまでも最終手段として計画されたものだと理解したために、「返し幅」が短いと思ったわけだけど、あるいはもしかするとそれは僕の全くの誤解で、実は完全なるドンデン返し――つまり図地の反転が起こっていたのかもしれない。ただ、なかなかそうは考え難い部分(シーンやセリフ)があって正直困っているんだけど・・・。