『ネバーランド』

http://www.neverland-movie.jp/

主人公ジェームズ・マシュー・バリが舞台『ピーターパン』を作り上げるまでを、作品のモデルとした(らしい)デイヴィス一家との触れ合いを通じて描いた作品。ジョニー・デップアカデミー賞ノミネートだなんだと言われている割には、どちらかと言えば単館上映に適していそうな比較的こじんまりとした作品といった印象だった。でも、筋立てからしてそんな感じだろうなと想像していた通りだったのでその点に関しては特に不満はなし。「心が温かくなる」シーンも確かにあったけど、でもそれだけでは終わっていない。むしろ全体的としては、「皮肉で切ない」話だったと思う(そう取る人は少ないみたいだけど)。ただ正直、印象がどちらかと言えば散漫だったせいか、残念ながら(?)泣きはしなかった。(どうでも良いけど、知り合いは泣いたらしいので、「泣かなかった」なんて言ったら人格を疑われる恐れがあるから、そもそもこの作品を観たこと自体を言わないでおこうと固く心に誓う。)

亡くなった父親の病状について「嘘」を吐かれていたショックから、絵空事=想像=嘘をことごとく拒否して極度な現実主義を貫くピーター。そんな「早く大人になろうとしている」幼いピーターに再び「子供らしい心」を取り戻してもらおうと、親身に接するバリ。そのバリを演じるジョニー・デップは、全編を通してあまり表情を変えていなかったような気がするんだけど、中でも特に、子供たちを楽しませるためにお茶目な格好や振る舞いをする時でさえ決して笑顔を見せることが無かった・・・ような気がする(実際にはどうだったか忘れたけど)のが気になった。バリのキャラ(内面?)が掴みづらかった要因かも。ただ、そのことが逆に、このタイプのよくありがちな作品とは一線を画している(と言ったら過言だけど)面でもあるのかな。バリは、自分たちが生きているのは決して甘ったるいファンタジーの世界の中なんかじゃなく、飽くまでも現実の辛く厳しい世界の中なんだ、ということを自覚しているのかもしれない。と同時に、映画としても「これは決してファンタジー(おとぎ話)なんかじゃなくて現実を題材にした物語なんだ」という事実を観客に対して印象づける形になっている・・・はず・・・少なくとも結果的には。

終盤にさしかかり、バリは、わずかな間に「大人」になったピーターの兄(名前忘れた)を褒めるし、ラストでピーターに想像力と信じる力とを持ち続けるように言うのも、決して、それらを単に無邪気に持ち続けることでいつまでも「子供」のままでいられるしそうであって欲しい、という思いからではない(文脈上、そうであったらヘン)。むしろ、悲しくも辛い現実を生きるためにこそそうした力を存分に発揮しなさい、というアドバイスとしての性格を持つものに(事実上)なっていたように思う。皮肉なことに、実際には子供たちはいつまでも「子供」のままでいるわけにはいかず、否応なく「大人」へと成長して行かざるを得ない――この作品は、どんなに一見そう思えるとしても(そして、明らかにそう宣伝されているとしても)、いつまでも「子供」の心を忘れずにいようというメッセージ性からは実はほど遠い。メッセージ性なるものがあるのだとしたら、それはむしろ逆に、(たとえば)真っ当で強い大人になるには想像力と信じる心とが必要だ、というものだろう。最初に「皮肉で切ない」と言ったのは、こうした点を感じ取ったから。でもあるいは、これって不純な見方なのかな?

最後にいくつか。多くの人にとって「凧を揚げるシーン」が印象的だったらしいけど、個人的には、その前にもうちょっと何かドラマがあった後ならともかく、いくらなんでも唐突過ぎるんじゃないかと感じた。確かにそのシーン単独で抜き出してみても印象的であることは分かるんだけど、でもどうせなら、そのシーンにもうちょっと象徴的な意味を持たせるなどして、いわば文脈的な感動を与えるシーンにして欲しかった気がする。制作側の意図としては恐らく、バリとデイヴィス一家との絆の「深まり始め」のキッカケを象徴しているつもりだったのかもしれないけど、それを象徴させるならもっと別の形ないしシーンでやるべきだった。この凧揚げのシーンが象徴するとしたら、何かの「始め」というより「(良い形での)区切りないし終わり」だろう。あとやっぱり特筆すべきはピーターを演じた子役。特にラストシーンなんかは小賢しいほどの名演技だった。ジョニー・デップが賞を貰わなくても、この子は貰うでしょう。