伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(ちくま新書)

いわゆるクリティカル・シンキング(批判的思考)入門。ちまたでは「クリシン」などという略称が流通しているほどお馴染みの領域らしいけど、個人的にはさほど馴染みはない。他の「クリシン」本がどういった内容なのか知らないため、本書の扱っている内容のどこが、なぜ、単に「思考」ないし「議論」ではなくとりわけ「哲学思考」なのかは、残念ながら良く分からない。ただ、様々な方法論について解説する際のアプローチの仕方や用いる概念などが、そこはかとなく「哲学的」と言えるのかもしれない。たとえば、何でもかんでも疑ってかかる全面的な懐疑主義でもなく、かといって何でもかんでも鵜呑みにするわけでもない、「ほどよい懐疑主義の基本原則としての「文脈主義」――どこまでは疑わずにどこから疑うかはその文脈(議論の内容や目的など)に合わせて決めましょう――という考え方は、認識論から採られていたりする。ただ、こう言っては元も子もないかもしれないけど、まあ当たり前と言えば当たり前。他にも様々な方法論が紹介されるものの、どれもことさらに特殊なものというわけではなく、「議論」において必要とされる比較的一般的な装置のような気がする。でも、他の種類の「クリシン」本を読み込んでいる人たちはどういう感想を抱くのか、非常に興味はある。

本書が「哲学思考」のトレーニングであることの眼目の一つは、著者によれば、いわゆる修理型ではなく改築型クリティカル・シンキングの方法を紹介することにあるようだが、でも別段そればかりを使う方法を勧めているのではなく、実際には飽くまでも両者を上手く組み合わせた方法論を目指している。この方針といい、先の「ほどよい懐疑主義」といい、単一の基準を設定するんじゃなく、脈絡に応じてその都度基準を調整して行けばイイじゃんという姿勢(反照的均衡?!)は、この著者がお得意とするところ。『疑似科学と科学の哲学』においても、いわゆる「線引き問題」に対する結論は結局のところ、いろいろな基準があるため「単純には線は引けない」というものだし(もちろん言うまでもなく、ごく当たり前のように思える結論を導くこと自体は無意味でもなんでもない)。いずれにせよ、その姿勢のおかげでますます本書が他ではなく正に「哲学思考」を謳うことのポイントが薄れているような気がしないでもないが、でももしかすると、むしろ逆にそうした姿勢それ自体こそが「哲学的」たる所以なのかもしれない。そうなると、他の「思考」がどういうものなのかがますます気にはなるけど。

ただ、哲学に関わっているとどうしても、自らの他の学問との違い、とりわけその独自性を確認したくなるものなのかもしれない。かつてなら、「哲学はすべての学問の基礎」だという認識の上にアグラをかいていられたんだろうけど(?)、最近ではさすがにそんな大それた認識を堂々と披露する人は少ない(そうでもない?)。一つにはもちろん、科学の発達(哲学と科学と宗教とが渾然としていた時代からすれば、むしろ「抜け駆け」、「独走」?)がある。科学も哲学も、「真理の探求」という点ではやろうとしていることは同じと言えば同じ。だったらこの科学全盛の時代、もういい加減科学(者)にまかせればイイじゃんという、まあ自然と言えばごく自然な考え方が根強くある。科学は「進歩」してきた。一方の哲学はどうだ、何か明確な「進歩」を見せているのか、と。何百年どころか何千年もの長きに渡って、なんと未だに同じ問題についてああだこうだ言い続けてるじゃないか――。さあ大変、アイデンティティの危機です。「青年期」どころか学問としてはすでに「仙人期」に入ってこのザマです。

そんな時です、「哲学は一般には役に立たないと思われているけど、実は思考のスキルを身に付けられるという点では役には立つ」と言いたくなるのは。こうした見解は本書でも恥ずかしげもなく披露されているのに加え、個人的にも比較的よく耳にします。ただ正直、どうなんでしょう実際? まずそもそも、他の学問が「役に立つ」と言われる時には飽くまでもその「内容」についてのことなのに、哲学に限っては、「役に立つ」と言うためにはわざわざ「方法論」の方を持ち出さなきゃいけないっていうのはどうなのよ? ちょっと虚しい気がしないでもありません。しかも、そこで言われている「思考のスキル」って、本当に哲学的議論に特有のものなんでしょうか? 何であれそもそも学問をするなら多かれ少なかれ「議論」(論文であれ口頭であれ)は必須なんだから、「思考のスキル」はそれなりに身に付けられるはずでは? などなど。ただ強いて言うなら、哲学を(一定程度真剣に)やっている、あるいはやっていた人に特有なのは、「思考のスキル」というより「問題の立て方/捉え方」の方なのではないかと。

たとえば、「事実主張」「価値主張」とを区別し、価値主張(「・・・は良い/悪い」、「・・・すべきだ/すべきでない」、など)に関わる議論に特有の問題点や方法論に関する記述に一章を割くなどということは、たぶん、哲学(的視点)に特有なことかもしれない。その章(第4章)では「生きる意味」に関する議論が例として採り上げられているんだけど、別に「生きる意味」に関して何か実質的な結論が提出されているわけではないので妙な期待(?)をしてはいけない。著者も言っているように、飽くまでも、価値主張に関しても単に「価値観の違い」で終わらせることなく一定の議論をする余地はあるということの一例が示されているに過ぎない。

よくよく思い直してみれば、本書も実は、単に「思考のスキル」を磨く方法を述べているというよりもむしろ、それこそ、「議論」を組み立てる過程における「問題の立て方/捉え方」自体を磨く方法を述べていると言えるかもしれない。そして多分、その方法論自体が他の「クリシン」本とは違うのだろう――良く知らないけど。いずれにせよ、「哲学思考」が何なのか、他の「思考」ないし「議論」とはどう違うのかは別にして、本書は、そもそも「議論」とは何なのか、有意義な「議論」を組み立てるためにはどういう姿勢の下にどういう方法論をどういう具合に用いれば良いのか、という概略を理解するにはうってつけだと思われます。ただ、そのスキルを身に付けるには実際に意識して繰り返し使ってみる必要があるんでしょうけど、この種の本を読んでもなかなかすぐにはそれを実行に移そうという気になれないのが悲しい・・・・・・。