「哲学者アリストテレスの胸像を発掘」
ちょっと前の記事ですが――。
http://www.nikkei.co.jp/news/main/im20061026SSXKE002026102006.html
どうやら、アリストテレスはわし鼻だったらしい――です。
まあ、「クレオパトラは実は団子っ鼻だった」という発見なら比較的一般的な関心を惹きそうではありますが、アリストテレスがわし鼻だろうが何だろうが、恐らく大抵の人にとっては「どうでもイイですよ」(by だいたひかる)って感じでしょうか。
それにしても、この写真の胸像って何だか見覚えがあるような気がするけど、デジャヴ? ――かと思いきや、それまでにも同じオリジナル像からの複製像は複数見つかっていたんだけど、それらはどれも鼻が欠けていたとのこと。
あ、(一番最近)どこで見たのか思い出した。確か『トリビアの泉』の冒頭――「かの哲学者アリストテレスは言った」。
そこでふと(今さらながら)気が付く↓
「禁煙セラピー」のアレン・カー氏死去
死因は肺ガン・・・・・・。
http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20061130-123560.html
あり得る感想:
- 実は自分自身は禁煙出来てなかったんじゃないか?
- いくら禁煙に成功したってそれまで吸っていた分の影響が消えるわけじゃないなら、結局禁煙なんて意味ないんじゃ・・・・・・・。
- 興味本位(?)に受け取られているようだけど、肺ガンの原因て別にタバコだけじゃないわけだしね・・・・・・。
「成長するティップス先生」
なぜか(個人的には)最近、やたらと"Tips"という表現を目にします。「耳打ち」や「助言」、あるいは「秘訣」といったところでしょうか。
中でも、某氏に教えてもらうまで知らなかったんですが、こんなページがあったんですね。
「成長するティップス先生」
http://www.cshe.nagoya-u.ac.jp/tips/index.html
主に大学教員のためのTipsです。「ティップス先生」がどうしてこんなキャラ(絵)なのかはともかく、非常に参考になります。黄ばんだ講義ノートを読み上げるだけの「ベテラン」教員の方々が参考にすべきなのはもちろんでしょうが、とりわけ新米の非常勤講師の方々なんかにとっては、数少ないすがれる藁の一つと言って良いかもしれません。何しろ、「教育者」としての勉強も研修も無しにいきなり現場に放り込まれるわけですからね(学生と教員、どちらにとっても恐ろしい)・・・・・・。
本文での授業(構想)の例は、(Ver.1.0のチーフライターである)戸田山和久氏が書いているんじゃないかと推察されますが*1、「論理学」になっています。でももちろん、他の授業にも幅広く応用が効くはずです。「当たり前のことしか書いてないじゃん」と言われればその通りかもしれませんが、でもその「当たり前のこと」(を漏れなくキッチリこなすの)がなかなか大変でもあるので、恐らく多くの方々にとっては「耳が痛い」部分も結構あるんじゃないでしょうか?
ちなみに、書籍版も出ているようです。
[高等教育シリーズ] 成長するティップス先生 (高等教育シリーズ)
なぜ名古屋大学出版会じゃなくて玉川大学出版部なのか、とかいう疑問はどこにぶつけたら良いのでしょう?
*1:特に、「ゼロから論理学を作っていく、という趣旨のぼくの授業」という部分から。
『タモリのジャポニカロゴス』
街で見かけるヘンな看板特集。
「長生き予防医学研究所」――「長生き予防」だとオカシイから正しく直せ、という問題。
でも、そもそも「予防医学」という分野があるわけで、そこを崩しちゃマズイんじゃないですかね? この研究所の設立目的は、恐らく、(少なくとも建前上は)「長生きの為に予防医学を研究する」ということだと思われるし。実際、タモリと関根勤は、さすがにそれを踏まえて、「長生きの為の予防医学研究所」と解答。結局、「の為の」は冗長で、簡潔であることが望ましいとのことで、不正解に。
だったら、「長生き・予防医学研究所」とか、あるいはわざわざ「長生き」を付けようというならいっそ、「予防医学・長生き研究所」とかで良いのでは?
その他にも、たとえば、「ストップ万引きキャンペーン」はオカシイから、「万引きストップキャンペーン」にすると良いとされていたのを、これまたタモリと関根勤に、「ストップ万引き!キャンペーン」にすれば良いと指摘されていた。
あと、「ゆるやかな急カーブ」は単に「急カーブ」にすれば良いとのことだけど、でもその看板が言いたかったことはたぶん、本当は「(Rの)大きなカーブ」ってことだったんじゃないかな・・・・・・。
このように、「オカシな」表現を「適切な」表現に修正するのは良いけど、そもそも元の意図を汲んでいない「適切な」表現に修正したところで、それは単に「統語論的に適切な」表現になるに過ぎず、「意味論的ないし語用論的に適切な」表現になっているとは限らないので、全く意味が無いのでは? それどころか、むしろその方が(看板として)「適切でない」表現になってしまう場合だって多々あるはずです。
たとえば、これは確かになかなか微妙ではあるんだけど、「リニューアル・オープン ――新しくなった『変わらぬ味』をお楽しみ下さい――」は、「新しくなった」を取れば良い、という例もあった。でも、これを書いた方だってそんなことは重々承知の上で、だからこそわざわざ「『変わらぬ味』」とカッコを付けているのだとは考えられないでしょうか? 恐らくリニューアルに伴って、味も実際にいくらか変えたんですよ、きっと。でも、だからと言って、それまでの味を全く変えてしまう程のレシピ変更をしたわけじゃなくて、以前の味のベースを飽くまでも残しつつ、さらにその味を印象的にするための変更をした――いわば味の「ベースアップ」を図ったということなんじゃないかな。だからそれをわざわざ、「新しくなった『変わらぬ味』」という風にちょっと洒落た(?)形で表現してみたのだ、ということだって充分考えられるし、むしろそう考えた方が自然なような気がしませんか?
「オカシさ」を笑いものにしたり、さも鬼の首を取ったかのように指摘するのも良いけど、元々それを言ったり書いたりした人の意図やその場の状況などを全く考慮しないで、あるいは「寛大の原理(寛容の原則)」を一切適用しようともせずに、そんなことをしたところで、逆にこっちが笑いものになってしまうだけのことがあるので、気をつけましょう(自戒を込めて・・・・・・)。
*1:「撲滅」は書けて「促進」は書けないとはこれいかに?
『のだめカンタービレ』
今クールのドラマで唯一「視ている」作品。(『役者魂!』にも惰性でチャンネルは合わせてるけど、こちらは松たか子目当てで「眺めている」だけ・・・・・・。だって、あまりにも空回りが甚だしくて、何だかいたたまれなくなってしまう・・・・・・。)
第4話――Sオケ初の定期演奏会、ベートーベン「7番」のサビ(ってクラシック音楽でも言うのかは知らん)に差し掛かったところでのだめが両手を口に当てて感極まるシーンに、思わず釣られてグッと来てしまう。上野樹里のこの芝居が無かったら、たぶん、「おお!」とは思っても、ここまでグッとは来なかっただろうな、と。
僕自身は原作マンガは未読だけど、原作ファンにも比較的好評のようですね。一般に、原作未読者にとってはドラマが原作に忠実か否かなんて全く関係無くて、そのドラマ自体が面白ければそれで良いものだとは思うんだけど、でも情報として「原作ファンにも好評」だということを聞くと、現金なもので、どこか安心できるというか何というか・・・・・・。
いずれにせよ、これからも益々楽しみなドラマです(唯一、ソフトバンクの「予想外」CMで使用されている曲とかぶってしまっているのが――そっちのイメージが先についてしまっているので――若干残念かな。)