成田和信『責任と自由』

上と何の脈絡もなく(でもそれこそが、このページのタイトルの「こころ」だったりするわけで・・・)、成田和信氏の『責任と自由』勁草書房、2004年)を読了。

ところで、哲学的な著作には大きく分けて3種類あるような気がする。

「知的格闘」「知的冒険」「知的遊戯」の3つである。

と言っても別に、「格闘」の方がグレードが上で「遊戯」の方が下、というわけでは決してない。文字量の多さや内容の難しさにさえ、特に関係しない。むしろ、著者にとってその扱う問題がどのような立ち現れ方をしているのか、あるいはその問題に対してどのような姿勢をとっているのか、といった事情が深く関係しているような気が(個人的には)する。それぞれの詳細な特徴づけに関しては、また別の機会に・・・。*1

そしてその(基準がすこぶる曖昧な)区別に従うなら、本書は、どちらかと言えば「知的遊戯」に属する著作だと思う。この分野において様々な論者たちが提出している様々な議論を次々に俎上に乗せた上で、自らの問題関心を基に、飽くまでもこの分野における概念装置を使いながら批判的な議論を組み立てつつ、最終的には自らの提示したい見解まで引っ張って行く――従ってその意味では、本書は、この分野に関する比較的オーソドックスな「教科書」的内容だと言えるかもしれない(ここで言う「教科書」的とはもちろん、「無色・中立的」ということを意味しているわけでは全くないので悪しからず)。

ちなみに、本書が道徳心理学の「教科書」だというのと同じ意味で、信原幸弘氏の『心の現代哲学』勁草書房、1999年)は文字通り、心の(現代)哲学の「教科書」だと思う(いずれについても、良し悪しの評価とは飽くまでも独立な意味で)。

それはそうと、本書について。

多くの読者にとって本書の内容は、もしかすると、タイトルから恐らく想像されるだろうようなものではないかもしれない。本書のテーマは飽くまでも、「責任に必要な自由」とはどのようなものかについて、道徳心理学的な概念装置を使って論じることにある。

成田氏はまず、ある人Sが行為Aを行ったことに関して責任があるということを、特に、(恨み、軽蔑、感謝などといった)反応的心情を向けるに値する、あるいは、値しうる、ということとして捉える。

そして次に、それに値する(しうる)と言えるための条件の(飽くまでも)1つとして「自由」を挙げ、焦点をそれに絞る。さらに、この場合の「自由」とは、行為者が自分で決めるという意味での「コントロールのことであるとされる。その上で成田氏は、

  • 行為者Sは、実際の行為Aを(責任に必要な意味で)コントロールしている⇔・・・

という形式の内の右辺(・・・)に入る条件を順次明らかにして行こうと試みる。実際、本書は基本的に、この右辺に入る条件の候補を挙げては批判するという作業の繰り返しに終始していると言って良い(C1から始まって、C8で成田氏自身の「答え」が提示される)。だから論旨および論述のそうしたストレートさ(?)も手伝って、本書は比較的読み易かったように思う。

何より、「序」で本書全体の主な内容がほとんど尽くされているのがある意味スゴイ・・・。

また、成田氏自身も自覚しておられるように、本書の議論にはなおも明らかにされるべき論点がかなり多く残されている。実際、最終章で述べられている点ばかりか、それまでの本文中にも、その問題ないし論点について「私はまだきちんと答えられない」と著者自身が正直に告白している(!?)箇所が多々あるのだ。しかし読者としては、もちろん、そうした「正直な告白」をいつまでも免罪符として認めてあげるわけにはいかないだろうし、恐らくそのことは、著者である成田氏自身が一番良く理解しているはずである。成田氏にはいつか、是非、本書で取り残した諸問題についてことごとく明らかにしていただきたいと思う。

その意味で本書は、多くの読者にとってはあるいは「教科書」的であるかもしれないが、成田氏自身にとっては、自らのプロジェクトの(これまでの「総決算」というよりもむしろ、これからの)「見取り図」的な位置付けになるはずだ――と勝手に言ってみる。

*1:ということはつまり、もう二度とこの件に関しては深入りすることはないだろう、ということ。