冨田恭彦『観念論ってなに?―オックスフォードより愛をこめて』(講談社現代新書)

前著『哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて』(同)は未読(でも読もうかな)。京都の某大学で教鞭を執る生島教授を主人公としたシリーズもので、しかも一応小説形式。タイトル通り、観念論、とくにバークリの観念論が主題になっていて、3人の登場人物の会話を通じて平易に論じられる。3章だてで、第一章ではバークリの「記号としての世界」という考え方について、第二章では彼の観念論(物質否定論)について語られ、そして第三章では、ロックとの比較を通じてそれの批判的検討が為される。各章の終わりには簡潔な解説もついていて、議論の背景的知識を補える趣向に。純情で物分かりの良い哲学科の学生(マシュー)相手のレクチャー形式で話が進むので、内容的には分かり易い。

現代哲学に携わる多くの人にとっては、「観念論」というと、「形而上学」や「デカルト主義」といった言葉と並んで一種の蔑称とも受け取られがちの感があるが(そうでもない?)、ではそのような使い方をしている人自身は当の観念論の議論の詳細について実際に知っているのかと言えば、残念ながら(僕自身をも含めて)必ずしもそうとは言えないような気がする。その点、この本では、そもそも(バークリの)観念論とは具体的にどういった議論なのかについての見取り図を示してくれた上で、その議論がどのような内的欠陥を伴っているのかについても独自の観点から論じている。同じ経験主義者として知られるロックの「物質肯定論」と対比させることで、バークリの「物質否定論」の難点をあぶり出す。この箇所(第三章)が特に読みどころかも。

これの良い点は、「思考内容の伝達可能性が説明できない」とか「独我論的だ」とかいった、観念論の議論に対するいわば外的な批判ではなく、その議論自体に潜む論証の不備(「歪んだ論理」)を指摘しているところ。悪い点というわけではないが思わず「策士だな」と思ってしまう点は、そうした批判的検討においてバークリよりもむしろロックの立場の方こそを印象的に浮かび上がらせているところ。お陰で、同じ著者による『ロック哲学の隠された論理』勁草書房)が読みたくなってしまう。折角ならヒュームにも触れて欲しかった気はするけど、欲張り過ぎか。

ところで、この著者は「生島シリーズ」の他に「科学哲学者柏木達彦シリーズ」(ナカニシヤ出版)も出している。どちらも「小説形式」を取っているのだが、実質的には純粋な対話編と何ら変わらなかったりする。対話編にちょこちょこっと地の文が付いただけ、といったところか。しかもその地の文も、せいぜいが、登場人物たちが何者であるのか、彼ら彼女は今どこで会話をしていて何を飲んだか、といった状況描写にとどまっており、およそ「小説」などと呼べるような代物ではない。じゃあ別に「小説」と捉えずにそれこそ「対話編に地の文が付いただけ」と捉えればイイじゃないかと言われるかもしれないが、どうも肝心の著者自身からして本気で「小説」を書いているつもりらしいのだ。著者がどうしてそんなに「小説形式」にこだわるのかは。以下は、第一章で登場人物たちがバークリの伝記的な話をしている途中、「観念論」という言葉が出て来た直後に挿入される地の文。

 生島は、その二日後に、マシューたちを相手に、当初まったく意図していなかった観念論そのものに関する批判的検討を行うことになる。だが、そのことは、このときの生島には、知るよしもなかった。

・・・・・・(苦笑)。

みなまで言いません。いっそ潔く純粋な「対話編」にしたらどうでしょう? 地の文を書かなくても良い分、もう少し詳しく、内容的にもさらに踏み込んだ話を書いていただけたら読者としては大変ありがたいのですが・・・。両シリーズにおける主人公、生島と柏木のキャラクターにはそれぞれ何か魅力的な特徴があるわけでもなく、それどころかそもそも区別が付かないし・・・。どうしても「小説形式」にしたいなら、せめて、たとえば笹澤豊『小説・倫理学講義』講談社現代新書)のようにある程度読ませるストーリー性(ないし「事件」性?)を持たせたり、野矢茂樹『無限論の教室』(同)のように個性豊かなキャラクターを登場させたりといった工夫をして戴きたい気持ちでいっぱいです。あとタイトル――ハーバードからでもオックスフォードからでも良いけど(たぶん次はケンブリッジから?)、とにかく愛なんてこめられても困ります。(さらに)良い内容をこめて下さい。