『天国と地獄』

言わずもがなの黒澤明監督作品。現代劇のサスペンスもの。『新幹線大爆破』を観た反動(?)で古き良きサスペンス邦画を探していたら、コテコテ(?)だけど黒澤明監督作品にあったじゃないかと。今まではタイトルは知っていても、それがサスペンスものだとは正直知らなかった。それに、これが「列車」と「身代金」とを扱っている点で共通していることも。対立経営陣に会社を奪われまいと自社株の買い占めのために資金を集めていた権藤は、運転手の息子を自分の息子と誤認されて誘拐される。犯人はそれでも構わぬと権藤に三千万円の身代金を要求、二つのカバンに金を詰めて特急こだまに乗り込むよう指示するのだが・・・。

この映画もご多聞に漏れずやや長めだが、さすがに見応えがあった。現代劇での三船敏郎(権藤役)って初めて(意識的に)見たかも。前半は彼の迫真の演技が見もの。列車を使った身代金の受け渡し方法は今となってはさほど意外だとは感じない(むしろ真っ当過ぎる?)のだが、こだまを借り切って*1何台ものカメラで一発撮りされたらしいそのシーンは、臨場感と緊張感がたっぷり。その後、実際にこれの模倣犯が出てしまい、黒澤監督はショックを受けてしばらく映画を撮れなくなった――という話はうっすら聞いた覚えが。

しかし、これはまだ映画全体の中盤。後半はもっぱら、警察が犯人を追いつめる捜査の過程が丹念に描かれる。こちらは『新幹線大爆破』とは違い、打つ手打つ手がビシバシと(?)決まって行って、いっそ痛快ですらある。ただ気になったのは、捜査陣の権藤への過度な同情の仕方。詳細に触れることは控えるけど、このやり方ってさすがの当時でさえ問題だったのでは? それはそうと、あのラストシーンに来て初めて、犯人役が若き山崎努だったことに気づく。それまでにも顔は出ていたものの、全く気づかなかった。でもこの演技を見たら、彼が今あるのも素直に頷ける。つい最近観た『死に花』では、彼が最後には呆けてしまう老人役を演じていたことを思い出す。ちょっと感慨深いものが。

新幹線大爆破』もそうだったけど、この『天国と地獄』もまた、サスペンスとは言え決してドンデン返しが待っているようなタイプのストーリーではない。何がどのように起きて、それがどう進行しているのかを、妙に奇を衒うことなく地道に丹念に描写しているだけなのに、これほどまでにのめり込んで観てしまうのはナゼなんだろう?

黒澤監督作品に関して言えば、1つには堅実な脚本作り(ストーリー設計)があるのかもしれない。彼の作品では、前期と晩期の3作品以外、具体的には'48年の『酔いどれ天使』から'85年の『乱』に至るまで、「脚本」として必ず2人以上がクレジットされている。この『天国と地獄』に関して言えば、なんと彼自身も含めて4人。もちろん、人数が多ければ良いというものではないかも知れないが、でも少なくとも、それだけ脚本が重視されていたのだということは明らかだろう。複数の脚本家が寄り集まって練りに煉られたストーリー、それだけ厚みを持ったものになっても当然かもしれない。ところで、最近の(少なくとも)邦画やTVドラマ制作の現場でこれほどまでに脚本に力が入れられることってあるんだろうか? 少なくとも、複数の人がクレジットされているのを見掛けることはほとんど無い気もするが・・・。

*1:細かいことだけど、こういう文脈では「貸し切って」と言われることが多いような気がします。でも本来「貸し切る(り)」って、文字通り貸す側が使うべき言葉のはずでは? 今の文脈では、黒澤組はもちろん借りる側なんだから「借り切る(り)」って言わなきゃおかしいはず。対して、「貸し切る」のは(旧)国鉄側ってことで。それにしてもこの「借り切る(り)」っていう言い方をあまり聞かないのはなぜだろう? 借りる側が「今日は貸し切りにしてあるから」とか誰かに言う時には貸す側の立場に立って言っているってことにならなきゃおかしいわけだけど、どうしてそんな文脈でわざわざ「相手(というか第三者)の身になって」考える必要があるのか? というか恐らく誰もそんな「想像上の立場交換」なんて行っているつもりはなくて、単に語感に従って使っているだけなんだろうけど。