野矢茂樹『他者の声 実在の声』(産業図書)

著者がこれまでに色々な所に書き散らかした(という言い方は、第三者が使うと失礼になる?)文章をまとめた、論文集というよりエッセイ集。「エッセイ」と言ってもいわゆる「日常雑記」とはちょっと違うんだけど、著者自身はたぶん、「そんなに違わない」と言うことでしょう。タイトルも、そうしたエッセイの一つから採られている。個人的には、まだ読んだことの無い作品の方が多かったため、このような形でまとまってくれて非常に有り難い。

「自前の議論をフツーの言葉で分かり易く組み立てる」という精神に基づいたエッセイ集という点では、本書は確かに、大森荘蔵氏の『流れとよどみ―哲学断章』に勝るとも劣らない。ただ、『よどみと流れ』ではいわゆる「もじり」とは呼べないどころかむしろ「パクリ」に近くなってしまうので、ワーキング・タイトルにしてはいても(詳細については「はじめに」を参照)、実際に採用しなくて正解だった。その代わり、仮に僕が本書にタイトルを付けるとすれば――『変化と予感』、かな。この二つこそが、特に他者、無限、時間といった論点に関する著者自身の捉え方におけるキー概念になっているように思うので。

タイトルの話しが出たついでに。実際のタイトル、「他者の声 実在の・・・」と来たら、「声」を繰り返すんじゃなくて、やはり別の言葉を持って来た方がしっくり来るような気がするんだけど、いかがでしょう? ただ(表題作の)内容的には、「理解しきれない、しかし、まったく理解を拒むわけでもない、『さあ、理解してごらん』」という「誘惑の声」を、著者は、他者から、そして同じように実在からも聞き取る、ということなので、両方とも「声」で良いと言えば良いんだけど・・・・・・。でも強いて言うなら、「他者の声 実在のざわめき」――かな。「誘惑の声」の前に「誘惑のざわめき」という表現も実際に使われているし、「実在」に対しては「声」より「ざわめき」の方が、ヘンに擬人化しない感じになって結構悪くないんじゃないかと。

さて、「タイトル問題」(!?)はともかく、どうしてこの表題作を真ん中のこの位置(19本中11番目)に持って来たのかがイマイチ良く分からない。内容的には、表題にするだけあって、本書全体を通じての著者自身の基本的なスタンスが示されているような気がするので、むしろ冒頭の方が良かったのではないかと。もちろん、小説の短編集や音楽のCDアルバムなどの事例を鑑みるに、「表題作=冒頭の作品」という慣例があるわけでは決してないんだけど(むしろ逆に少ない方だったりするかも?)、本書の場合、このエッセイのスタンスを元に発展させた論考(執筆年の前後関係はともかく)を読者はすでに前半に読み終わっていることになるため、ここへ来て今さらそれまでの基本スタンスを確認されてもなあ、という感じになってしまうのだ(それこそ、「流れ」が「よどんで」しまう!?)。同様に、17番目の「<意味の他者>を読む」も、内容的な連関から言って、9番目の「『分かる』ということ」の前後に持ってくれば良いものを、しかもどうせなら、他の「他者」関連のエッセイとも繋げれば良いものを、どうしてわざわざ最後の方のこんな場所に持って来たのだろう?

内容的な繋がりを明らかに意識した並びになっている部分もあれば、今挙げたように並びの意図が不明なものもある。僕にとって、だからこの点に関して著者(and/or 編集者)は明らかに<意味の他者>だと言える。「さあ、理解してごらん」――という著者の声に、しかし今はこれ以上耳を傾けることはしないでおこう。いずれにせよ、「他者の声」や「実在のざわめき」に耳を傾けることで、そこに理解すべく何かが存在するような「予感」に導かれるようにして自らを「変化」させて行く――結局、本書を通底する著者の基本的なスタンスを一言で要約すれば、こうなるだろうか(もちろん、ホントはもうちょっと補足的な言葉を付け加えたいところなんだけど)。

何だかんだ言っても本書は、いつもながらの野矢節が満載の好著であることに変わりはない。論点や基本スタンス自体が比較的シンプルであることに加えて、その論述が明快であるため論旨もまた非常にクリアーで分かり易い。叙述スタイルも、時と場合によって様々に変えられていて、飽きさせない。こういうスタイルは、簡単にマネできそうでいて(著者が軽快にちょこちょこっと書いているように錯覚してしまうから)、その実なかなかそうはいかなかったりする。単に「軽快な文章」なら軽快にちょこちょこっと書けるかもしれないし、実際その方がテンポが出てむしろ良い感じになる場合もあったりするのかもしれないけど、殊「軽快な議論」となると事情は全く逆になるように思う。読む側に妙な勘違いをさせてしまう恐れがあるという点で、この著者の文章は教育上非常によろしくない(もちろん冗談です)。

たとえば「『しかし』の論理」は、無限、他者、時間をテーマにしたエッセイが多い本書の中にあって、ちょっと例外的な論考。論理学では「かつ」と「しかし」の区別が出来ない(「しかし」を、「かつ」と区別されるような仕方で特徴づけられない)ということは良く知られているけど、その「しかし」についての著者なりの分析が綴られている。しかも、いつも以上に嬉々として書かれているような印象を受けて、何だかとっても羨ましい。最後にちょこっと、横山やすしの「怒るで、しかし」の「分析」なんかを加えて終わっていたりする。書き終えた後の著者の(恐らく)満足げな表情が思い浮かんでしまって悔しい(!?)ので、敢えてくだらない茶々を一つ。「ちょーキモイんですけど」の「けど(=だけど=しかし)」は、どう分析されることになるんでしょうか?