『決闘!高田馬場』

何ヶ月も前に先行予約したまますっかり忘れてたんだけど、クリスマスを過ぎた途端に届いたことで思い出す。お陰で良いクリスマス・プレゼントになりました――って自分で買ったんだけど。

いわずと知れた三谷幸喜作・演出作品なんだけど、「PARCO歌舞伎」と銘打った、(もちろん)三谷氏初の歌舞伎作品。あのパルコ劇場でどうやって歌舞伎をやるのか、いやそれ以前に三谷氏の歌舞伎って一体どうなるのか、あるいはまた、市川染五郎*1はともかく他のベテラン歌舞伎役者の方々が三谷喜劇に上手くハマるのか・・・・・・そういった未知数な要素が多々あるだけに、不安と期待とがないまぜになっていた。でも実際には、DVDを観終わった後、公演のチケットが取れなかったのは痛かった、これは絶対、生観劇しておくべきだったと、地団駄を踏むことに。

赤穂四十七士の一人、堀部安兵衛として吉良邸に討ち入るちょっと前、掘部ホリに婿入りする前の、中村安兵衛の物語。剣の達人であったはずの安兵衛が、あることをキッカケに酒浸りになり、働きもせず、もっぱら喧嘩の助太刀・仲裁をして小銭を稼ぐという落ちぶれた生活を送っていた。しかしその「喧嘩」というのは実は、同じ長屋の住人で、安兵衛を「義兄(あに)」と慕う大工、又八による「やらせ芝居」で、しかも安兵衛自身もそのことを知っているにもかかわらず、又八から受け取る金で昼間っから酒を喰らうという質(たち)の悪さ。以前、それぞれ安兵衛に世話になり恩を感じていた長屋の住人たちは、そんな安兵衛をそれでも支え続けていた。そんな折り、おじが高田馬場で決闘をすることになったことを知った安兵衛は、助太刀に向かおうとするが――。

歴史上のどんな「ヒーロー」であれ、その活躍はことごとく、庶民の日々の暮らしや時にはその犠牲の上にこそ初めて成り立っているんであって、それ抜きの「ヒーロー」だの「伝説」だのなんて全くのナンセンス!という、三谷氏のいわば「アンチ・ヒーロー史観」は、やはりこの作品にも遺憾なく発揮されている(というより、そもそもこの題材を選んだ理由からしてそうだったんだとは思うけど)。「歌舞伎」であるということをさほど意識する必要もなく、純粋に「時代劇」だと思って観ることも出来るだろうし、あるいはむしろ、そもそも歌舞伎っていうのは元来こうした庶民的な芝居なんであって、実に気楽に観ることが出来るものなんだと(形式的で堅苦しいものだと思っていた人は)認識を改めることも出来る。また、三谷氏が拠り所にしていたらしい、「歌舞伎役者が演じれば何でも歌舞伎」という(亀治郎丈の?)言葉も、実際に作品を観た後では実にしっくり来る。ホント、役者陣の芸達者ぶりには恐れ入るしかない。観る前に不安を感じていた自分の不明を恥じるばかりです・・・・・・。特典映像にあったリハーサル風景を見る限りでは、皆さん、そこいらに居る「単なるおっさん」にしか見えないので、そのギャップがまた凄まじい。仮に現代劇の役者たちがこの作品をやったとしたら、それこそ、「ちょっとした余興で、時代劇に歌舞伎的な味付けをしてみました」程度にしかならないだろうと思う。

市川亀治郎丈は、安兵衛の幼なじみ小野寺右京として最初に出て来た時には、白塗りとその貫禄とで、もっとベテランの方なのかと思ったら、実は染五郎丈とほとんど同じ(あるいは年下?)だというからちょっとビックリ。亀治郎丈はまた、堀部ホリと(安兵衛のおじの決闘相手である)村上庄左衛門の二役を含め、なんと計三役を演じている。中でも特に、堀部ホリのエキセントリックさは最高。女形の真骨頂――とまでは行かないかもしれないけど、それでもやっぱり、これが成立するのは歌舞伎的要素を取り入れた芝居ならではかも。最初は、右京と同じ役者が演じていることに全く気が付かなかった。女形と言えば、市村萬次郎丈演じるおウメ(ばあ)さんもホントに良い味を出していた。個人的には(コメンタリーでも触れられてたけど)、故・青島幸男演じる「いじわるばあさん」以来の、男性演じるおばあさん。染五郎勘太郎のコンビは、カーリングイナバウアーから「キレてないっすよ」(by 長州小力)まで、鮮度が命の時事ネタを、しかも時代劇の中で好き放題にやりっ放しで、まあ、ちょっとした余興としては楽しめるかな。(この作品に限らず、三谷氏は自分の舞台作品の中に必ずと言って良いほど時事ネタを入れて来るんだけど・・・・・・どうなんでしょう? 一ファンとしては、もっと純粋に、シチュエーションの可笑しさによる「笑い」だけに徹して欲しい気がしないでもないんだけど・・・・・・。)

また舞台装置も、三谷作品としては初めてだったり珍しかったりするものが目白押し。場面転換に多用され、狭い舞台ならではの効果を見せた「廻り舞台」(「盆」と言うらしいけど)や、たった一度だけ、後半への勢いづけ(?)に使われた「せり上がり」、そしてその後半、次から次へと左右に飛びまくるブレヒト幕」(野田作品の『贋作・罪と罰』で使われた幕を急遽借りたらしい)――。三谷氏の他の多くの舞台作品とは違って、この作品は場面転換が多いのが一つの特徴。しかも、場面(シーン)転換どころか、廻り舞台やブレヒト幕の使用による、ある意味での「カット割り」すら見られた(映画作品ですらほとんどやらないのに)。

最後に、三谷作品のDVD版ではすっかりお馴染みの、そして僕の大好物の(!?)コメンタリーは、三谷氏と市川染五郎丈の一対一。歌舞伎関係のセリフや演出に関しては、やはり三谷氏、もっぱら専門家におまかせだったようで、全体としては自身の作品であるにもかかわらず、結構他人事のようにそれらのシーンを観て、そしてその上で染五郎丈を質問ぜめにしていたのが印象的だった。また、二人の会話の中でも個人的に特に興味深かったものがあって、それを一つの話しにまとめると・・・・・・「歌舞伎は、観客が芝居に没入するのではなく、むしろ、たとえば一人二役の早変わりを敢えて見せ場にしたり、『○○屋!』のように役者の屋号を叫ぶかけ声が飛んだりなど、役者を対象化する傾向にある。それなのになぜか芝居が成立している、というところが面白い」。そして今回の作品にも、そういった意味での歌舞伎的要素はたっぷり入っていたと言えるでしょう。ちなみに、調べたところによると、「ブレヒト幕」の発案者(で良いのかな?)としても知られるドイツの劇作家ブレヒトは、「観客が俳優や物語に感情移入するのを避け、劇の対象化・観察を通して批判的に観ることを要求する手法」を編み出したらしいですね。だとすると、今回の作品のように、歌舞伎(的)作品にブレヒト幕が使われるっていうのも実はごく自然なことというか、どこか象徴的な感じがしないでもありません(本家の歌舞伎ではもちろん、ブレヒト幕なんていう洋モノは使われないんでしょうけど)――まあもちろん、「別に関係無いんじゃないの?」と言われるかもしれませんが。

*1:どうやら歌舞伎界では「氏」の代わりに「丈」が使われるらしいので、その慣習に倣ってみます。

Part2

CO-RE2006-12-26


実は、その宮島口にある「あなごめし うえの」で「あなごめし」を食べるつもりだったのだ。しかし、閉店時間はやっぱり早くて、これからが夕食時だろうと思われる19時。それなのに、僕のお腹は相変わらずキツキツのまま・・・・・・。でも、何としても食べておきたかった。そこで、尾籠な話しで恐縮だけど、とにかく食べた物を(下から)出してみる。それから駅のベンチに座って腹をさすりながらしばらく休むも(トイレもベンチも改札の外にある)、18時半になると(何かを察知して?)、意を決して店内へ。幸いというか何というか、「あなごめし(小)」というのがあったので、迷わずそれを注文。さっそく口に運んでみる。以下、その時の僕の心の声――「言うたかて、あなごやろ? そんなもん高が知れて……うまっ、あなごうまっ! うわっ、なんやこれ、あなごや思うてあなどっとったらあかんなあ、って別にダジャレやないで――あら、気ぃついたらもう無いわ。えっと、誰がもう食えないって?>自分」。いやホント、旨かった、というか、美味かった! 腹のことなんか気にせず、一気に完食。あなごと言ったら、どこかウナギの出来損ない的なイメージがあった(天ぷらはまあ、好きだ)けど、これでもう完全にそんなイメージは覆りました。

実は食べている最中、まだ19時にはなっていなかったのに、店に入って来た客が何組かが、「もう閉店なんです、すいませんねえ」ということで追い返されていた。だから結局、僕がその日の最後の客だったというわけ(先客も何名かいたけど、その内、僕が最後に入って来たものの出て入ったのは最初)。あ、危ない・・・・・・。19時ギリギリまで入店せずにまだ粘って腹をさすっていたら、僕も追い返されていたところだった。そうなっていたら、一体それまで何をやっていたのかと、自分のあまりの惨めさに立ち直れなくなっていたところだった。何はともあれ、これで心置きなく広島市内に戻れるということで、JRに。でも今度は、広島駅まで行かず、その一つ前の横川駅で下車。市電に乗り、「原爆ドーム前」で下車。広島に来たら当然見ておかなきゃいけません。ここもまた、高校の修学旅行以来。19時から近くで懇親会があるところを、参加は20時過ぎるかもしれないと予め連絡してあるため、20時半くらいまでなら良いだろうと。それに、腹ごなしをしてから行かないとそもそも何も飲み食い出来ないだろうし・・・・・・。

ライトアップされた「ドーム」は、また独特の雰囲気。橋を渡って川の反対側からも。後ろに聳える現代的な建物・・・・・・。夜の平和記念公園内を歩く。「原爆の子の像」のぐるりを囲む、折り鶴たちの群れ。でもそれは、今やガラスケースの中に。「雨よけ」としても機能してはいるのだろうが、恐らく、以前にあった放火事件をキッカケにしたものなのだろう(実際、そうだとのこと)。その後、代わりの折り鶴を贈るプロジェクトが呼びかけられた結果、その年の終戦記念日にはなんと何十万羽もの折り鶴が贈られた――といったニュースは何となく覚えてはいたが、そのプロジェクトが2ちゃんねる」発だったことは、知らなかったというか忘れていた。そして慰霊碑(これもまた、「過ち」の部分が削られるという損壊被害にあっている)。今後、この国が他の国にこうした慰霊碑を建てさせるようなことにだけはならないよう、願わずにはいられない。そこから平和記念資料館へと続く道の両側には、たくさんのロウソクが並べられていた(後で知ったところでは、ちょうどその日からだったらしい)。道路を渡った所には、光のモニュメント。とりあえず潜っておく。それにしても、ここへ来るとどうしても神妙な気持ちになってしまう。

再び気分を切り替えて市電に乗り、数個目の某電停で下車。某居酒屋へ。でも案の定、食べ物はもうほとんど入らないため、イカの刺身の「つま」である大根の細切りをむさぼり食ってアスターゼ摂取に励む。22時近くにその場はお開きになり、2次会に行く人とホテルに帰る人とが分かれる。僕はもちろん、ホテルに帰る人――。幸い、電停2、3個分しか離れていなかったので、すぐ到着(ちなみに、これでちょうど一日乗車券で「得」が出たカッコウに)。このホテルはまだ出来たばかりのようで、新しく、快適。風呂に入ってからベッドに寝転がりながら、翌朝の作戦を練る。10時から広島駅前の某ホテルにて研究会。それまで市内でのんびりしているのは勿体ない(!?)、何とかどこか別の所を見物したい、と思っていたので、時間的に余裕があったら行ってみようと漠然と思っていた錦帯橋に行ってみることに。でもそこは、宮島のもっと先。10時ちょっと前までに広島駅に戻って来られるかは微妙な距離。でも、ホテルの朝食は(7時からの所が多いようだけど)幸い6時半からだから、7時前にホテルを出て、しかもそれに加えてある作戦を決行すれば、何とか間に合うかも――。

翌朝、セットしていた目覚まし時計よりも若干早めに目覚める。6時半少し過ぎにはもう、バイキング形式の朝食にありついていた。自宅ではどうも朝は胃が働かなくて困るのに、出先だとどうしてこう、朝から食欲旺盛なのか。結局、予定通り7時前にはホテルを出て市電に乗り、早朝の原爆ドームを窓から眺めつつ、今度は西広島駅へ。そこからはJRに乗り、岩国駅で下車。バスで錦帯橋に向かう。山口ナンバーの車を見て、遅ればせながら、ここってもう山口県なんだと気づく。300円払って橋を渡る。江戸時代初期に建造された木造のアーチ橋で、台風被害などのため何度も架け替えが行われているようだが、最近もまた「平成の架け替え」が終わったばかりらしい。あんまりゆっくりもしていられない。再びバスに乗り、向かうは新岩国駅――実は、帰りは山陽新幹線を使うことにしたのだった(要するにこれが、「ある作戦」)。たった一駅分を新幹線で移動なんて暴挙に出たのはもちろん、そうしないと間に合わないことが確実だったから。そしてそのお陰で、9時40分過ぎくらいには無事、広島駅に到着。「早朝の大移動」のせいで若干お腹が寂しくなっていたので、売店で買ったおにぎりを与えて宥めすかす。10時ちょっと前には何気ない顔で(?)会場に到着。

昼休憩には、10人ほどで近くの某広島つけ麺屋(ちなみにこの店、東京駅地下名店街に出店していたことを後で知る――なぁんだ)に押し掛ける。これだけはまだ食していなかったため、ラッキー。つけだれの辛さが選べるようになっていたけど、とりあえず弱気の「2」で・・・・・・。麺には茹でキャベツとキュウリとネギがたっぷり乗っていて、(あんまり好きな言葉じゃないけど)ヘルシーな感じ。これらで薄まるため、辛さレベルはもうちょっと高くても良かったかな。最後、言えばスープ割りも出来たんだろうか? ちなみに、同席した京都、広島、北海道の方々は、この「制度」をご存知無かったようだ。もしかしたらこれって、そば湯がお馴染みの関東に独特だったりする? 研究会が終わるとすぐリムジンバスに乗り込み、空港へ。幸いにも、今回は何のトラブルも無く空港に到着出来て、ホッとする。万が一のためにと早めに行動していたため、飛行機の時間まではまだだいぶ余裕がある。空港内でゆっくりお土産を買い、その後、某レストランで「広島三昧御前」なるものを食す。ミニあなごめし牡蠣フライ数個に小いわしの刺身少々――など。牡蠣フライや刺身はまあ特に悪くはなかったけど、(ミニ)あなごめしはアカンかった・・・・・・。もしこれがあなごめし初体験だったとしたら、「まあ、せいぜいこんなもんだろうな」とそっけない感想だけで終わって、もう二度と食べようと思うこともなかっただろう。でも実際には、「うえの」での体験は鮮烈で、またいつか美味いあなごめしを食してみたいと思っている。

<やっと終わり>

Part1

某研究会出席のため、前日の土曜日入り。今回は1泊2日、しかも研究会のある日曜日は10時から16時までは身動きが取れないため、観光に割ける時間は1日だけ(というか、実質半日)。時間節約のため飛行機で。「先得」などの割引サービス利用で新幹線とほとんど変わらない――というより、もしかして安かったりしちゃったかも。

広島空港からリムジンバスで広島駅新幹線口まで。昼を過ぎていたので、とりあえず、予め調べておいたお好み焼き屋に向かうことに。市電の1日乗車券を買って乗り込み、某電停で下車。さあ、お好み焼お好み焼き・・・・・・のはずが、なんとその店の開店は夕方らしい。前の札幌でも、到着早々に行ったラーメン屋が改装中だったし、なんともついてない・・・・・・。気を取り直してもう一つの(これまたやはり、予め調べておいた)店へ。スペシャルそば玉子入り」なるものを1枚注文。肉玉そば(肉、玉子、麺)にエビやイカが入っているのが「スペシャル」の所以らしい。まあそれなりに旨くはあるけど、何だかお好み焼きというより、焼きそば――しかも、何の因果かソースと麺とが生地によって分断されている(!)海鮮ソース焼きそばを食っているよう。

まずホテルに行ってチェックインだけするつもりだったので、歩いて向かう途中にあった別の某お好み焼き屋に思わず入ってしまう(さっきの店を出てから10分くらいしか経っていなかったかも)。実は、「広島風つけ麺」の某店に向かっていたんだけど、ちょっとした冒険心(!?)が働いてしまったと言うか何と言うか・・・・・・。そう、店によってお好み焼きの味がどれほど違うものなのか、比較してみようじゃないか、と。

「そばスペシャル」を注文。目の前のデッカイ鉄板で焼いてくれる。見た限りでは入っている具はほとんど同じようだ。さあ、味はどう違うのか――正直、そこまで「違い」は分からず・・・・・・。あるとすればせいぜい、生地が比較的パリッとしているかモチッとしているか、ソースが甘めがからめか、といった程度だろうか。「お好み村」なるものも近くにあったが、果たして各店でどれだけ違うものなのか・・・・・・。何とか完食するも、さすがに腹がキツイ(「満腹感」は遅れてやって来るという事実・・・・・・)。そんな思いまでして得た教訓はただ一つ――広島の方々には非常に申し訳ないけど、お好み焼きを食うならやっぱり関西風かな・・・・・・。

チェックインだけ済ませてから市電に乗り、再び広島駅へ。いざ宮島。市電でも宮島口まで行けるが時間がかかるようなので、JRを使うことに(だったら広島駅まで戻らずに、横川駅か、あるいはむしろ西広島駅に向かえば良かったのだ――と気づくのは、なぜか次の日になってから)。宮島口駅からちょっと歩くと、宮島行きの船乗り場。乗船時間はごくわずか。宮島につくと、鹿がお出迎え。駅前にいたのは1頭だけだけど、厳島神社方面に向かって歩き出すと、いるわいるわ、さすがに鹿臭さが鼻につくように。

土産物屋や食べ物屋が並ぶ商店街を歩き、「焼きがきのはやし」へ。正直、まだ腹はキツキツの状態だったけど、この店がなんと16時半閉店とのことで、背に腹は代えられない(でも、今回ばかりはそこを何とか代えて欲しかった・・・・・・)と飛び込む。「焼きがき」だけを注文。1皿4個のはずが、来た皿に乗っていたのは5個。ちょっとラッキー(腹がキツくなければもっとラッキー)。牡蠣と言ったら、生牡蠣としてはごく稀で、やっぱり牡蠣フライとして食べるのが専らだったので、殻ごと焼いたものというのは結構新鮮な感じ。レモンもついていたけど、何もつけずにそのまま食す。おっ、旨い。殻の底に溜まっている汁も、何の味付けもされていないはずなのに、程良い天然の塩っ気と牡蠣の濃厚な出汁(?)とが絶妙なハーモニー。最後の2個はレモンをかけて。これはこれで、さっぱりして美味い。おやつ感覚でペロリと平らげる。相席した若い外国人カップルは、「焼きがき」に加えて(徳利入りの)日本酒を頼んでいた(英語版のメニューを指さしながら)。やっぱり日本に来たら"sake"でしょう、ってことなんだろうな、きっと。

店を出ると、今度はわざわざ海沿いの道まで出てから厳島神社へ。高校の時に修学旅行で来て以来。300円を払って中へ。潮は満ちていたため、例の鳥居(の足元)は海の中。出口から出ると、「ロープウエー」の案内に沿ってどんどん歩いて行く。でも、なぜか誰も歩いていない。どんどん山の中に入って行く。お店を見つけたので、イヤな予感がしつつも、閉店作業中らしき人に訊いてみると、ロープウエーはもう終わったとのこと・・・・・・。しばらくウロウロしていると、「大聖院」に。腹ごなしに弥山登山でもしてみようかと思っていたら、「登山道崩壊につき立ち入り禁止」とのこと・・・・・・。思惑がことごとく外れる。五重塔の真下に行ってみたり色々やっていると、さすがに辺りが暗くなって来る。すでに拝観時間を過ぎていた神社や鳥居がライトアップされていたので、岸からしばらく眺める。暗くなったとはいえ時間的にはまだ早いというのに、神社ばかりか商店街もどんどん閉まって行く。仕方が無いので船で宮島口まで戻ることに。

でも、このままではある計画を実行するのは困難だ、どうしよう・・・・・・。

<つづく>

永井均 『シリーズ・哲学のエッセンス西田幾多郎 とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)』(NHK出版)

正直、西田は読んだことが無かったので、というか、無かったのに、「永井が西田?」と意外に思ってしまっていました(つまり、そもそも意外に思うための基本情報すら持っていなかったのに、ということ)。でも、読み始めてすぐ、全く意外でも何でもなかったことを思い知りました。無理矢理スローガン的に言うなら、「自我論としての無我論」――正にこの点において、永井は西田に、自らと通底する問題意識を見て取っており、それゆえ、これまでの彼による「解説書」のスタイルと同様、西田を使ってちゃっかり自らの哲学を展開(あるいは少なくとも開陳)しているわけです。

自我が成立する以前の、それゆえ「私と汝」が成立する以前の、さらにそれゆえそもそも言語が成立する以前の、主客未分・主客合一の「<絶対無>の場所」、そしてそこから自我が成立するに至るプロセス――そうした(永井自身の用語 in 『私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)』を使うなら)「開闢」的な事態について、つまり、本来なら「語り得ぬ」はずの事柄について、何とか語ろう(あるいは野矢茂樹 in 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)』風に言えば、「語り続け」よう)、捉えようとする試み。永井は最後の方で、私が私を「私」という語で再帰的・反省的に捉えることができるようになる理由について、次のようにまとめています。この箇所だけでも、彼が自らの哲学を西田哲学に重ねていることがよく見て取れて、印象的です。

それは私が、以上に述べてきたようなプロセスを通じて、場所である私と個人(自我)としての私を、絶対無と相対無を、<私>と「私」を、一挙に同時に捉えることが可能になったからなのである。繰り返して言うが、これはほとんど奇跡的な事態である。(p.97)

* * *

第三章では、田辺元による西田哲学批判が採り上げられているんですが、それについての永井による評価がちょっと興味深かったりするわけです。全部引用すると長くなってしまっていろいろマズそう(?)なので、最後の部分だけ――。

同じ言葉を使って議論をしても、西田はつねにそのとき通じているその言語の成立の手前で考えているのに対し、田辺はすでに立派に通用している言語の上にたって、そこからあらゆるものごとを考えている――そしてその「あらゆるものごと」のなかにはこのことも含まれる――からだ。(p.84。強調は永井自身による。)

仮に永井が、西田に自分を重ねているとすると、田辺に重ねている人物も自ずと推察されるわけで、特にこの引用の直前の部分なんかと合わせると、実に見通しが良くなる気がします。「まあ、たぶん、そういうことなんだろうな」、と・・・・・・。

* * *

実はつい最近、必要があってたまたま大森荘蔵流れとよどみ―哲学断章』を読み返していたせいで、最初(飽くまでも最初だけ)はどうしても「立ち現れ一元論」の元ネタ(?)を読んでいるような気がしてなりませんでした*1。実際、大森はもちろん西田を読んでいて、たとえば『時は流れず』に収録されている「主客対置と意識の廃棄」の章の書き出しはこうです。

 主観-客観という対置概念は、かつて西田幾多郎が西洋思想の極悪犯人として厳しく論難したように、一時は手配人相書きのトップに置かれた観があった。(p.170)

ただ、とはいえ大森が主客対置の問題をとりあげるのは、「西田の尻馬に乗るなどという意図からなどではない」(同)*2とのこと――。

詳細については措くとして、大森自身は必ずしも西田哲学に共感していたわけでもないのかもしれません。「主客未分とか合一とか言うこと自体、すでに主客対置の呪縛に与している」(p.185)という見解を述べる際、彼の念頭には西田哲学があっただろうことは想像に難くないような気がします。西田哲学と大森哲学の関係、というよりもむしろ、大森による西田哲学評については若干興味が無くもありませんが、でも実際には、たぶんこれ以上この件に関わることはないでしょう。

* * *

以上、何だか単に「出歯亀」*3的な感想文になってしまいました・・・・・・。

いずれにせよ、この本が「西田哲学」の正統な解説書ないし入門書であるかどうかは、僕自身としてはどうでも良いので、その意味では、(最初にも言ったように)別角度からの永井自身による「永井哲学」の開陳として、相変わらず面白く読めました。

ついでに、「自我論としての無我論」という「語り得ぬ」事柄についてのもう一つの(超!?)形而上学な――それなのにどういうわけか、比較的「理解」し易い!?――語りとしては、同シリーズの、入不二基義ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか (シリーズ・哲学のエッセンス)』が挙げられるかもしれません。

追記id:charisさんがこの本の解説を(連載形式で)して下さっているようなので、興味がある方はそちらを読まれた方が余程有益かと思われます。

*1:「解説者」である永井自身が、「解説」上の参考までに大森を多かれ少なかれ意識して書いているから、という可能性もなきにしもあらずだけど。

*2:「など」が重複していますが、これは本文のままです。

*3:そういえば「出歯亀」っていう言い方はどこから来てるんだろう、とふと思ったので調べてみたら、ちょっと面白かった。さすがはウィキペディア・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E6%AD%AF%E4%BA%80

慣用表現の意味

夕方のニュースを視ていたら、男子柔道の某選手(っていうか、名前未確認)のコメントが実に印象的で。

  • 試合前・・・「体にむち打って、(調子を)整えて来ました」
  • 試合後・・・「三度のメシを食うように試合をしたら、勝っちゃいました」

それぞれの表現の使い方は、間違っているわけではないんだろうけどやけにビミョーな感じで*1、でも何となく言いたいことは分からないでもない所が面白い。

*1:前者は、「体にむち打つ」と「(調子を)整える」ということとが一見相容れないような印象を与えるから? でも、使い方としては恐らく間違いではないハズ。後者は、「三度のメシより・・・が好き」という言い方はよく聞くけど、「三度のメシを食うように・・・をする」という言い方は――もしかして新表現? まあ、「当たり前のことを当たり前のようにこなす」とかいった意味合いなんでしょうけど。